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Fellatio Destination
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第二話 「ウェイクフィールド」 ナサニエル・ホーソーン
聖なる夜に、あなたは何が欲しいですか?
そんな質問をされても随分と困ってしまう僕ですが、読者諸兄はすんなりと答えられるでしょうか?
物質的に満たされた世の中とはいえ、手に入らないもの、入るとは思えないものは沢山あります。
その質問をする側にしても、現実的に可能なものを言ってもらえると、そう期待するでしょう。
それが恋人どうしならば、暗黙の了解というか、それまでの過程を経た何某か妥当なものを要求されることでしょう。
その関係には質問者側が期待をするなどもってのほかで、率直に言ってしまえば恐喝やゆすりの類になってくることもしばしばという状況にもなりえるのではないでしょうか。
僕の好きな話に最後の一葉で有名なO・ヘンリーの「賢者の贈り物」という寓話があります。
ことさら有名な話ではありますが、ここで簡略にその話を記してみたいと思います。
とある貧しい夫婦が聖なる夜に、お互いへのプレゼントを贈りたいと考えます。
しかし貧しい暮らし故にプレゼントを買う余裕などどこにもありません。
そこで妻は自分の自慢の髪をバッサリと切り落とし、お金に換えて夫の為に懐中時計に使う鎖を買ってあげました。
夫は妻の自慢の髪を美しくまとめる鼈甲の髪飾りを買う為に、大切に使っていた懐中時計を質入れしてしまいます。
そして聖なる夜を迎え、お互いに不要になったそのプレゼントの代わりに、お互いを思いやるという幸福を手に入れたのです。
現世にこんな滑稽な事をやってしまえば夫婦関係は破綻し、一家は離散。
夫は失業して乞食に身をやつし。妻は泡姫として糊口をしのがなければいけなくなるのは必定。
バカがバカをバカ呼ばわりする現世はまっこと恐ろしいものです。

閑話休題

この様に聖なる夜には大切な人に大切なものを贈る習わしが古来から存在するわけですが
今から紹介する「ウェイクフィールド」というお話。
簡単に言ってしまえば「愚者の贈り物」
クリスマスという時期を舞台にした話ではないですが、この男の思考や挑戦というものがいかに馬鹿げた行為であるかというのを読者諸兄に知っていただきたい為に、この題材として選んでみました。

ウェイクフィールドはいつもと変わらぬ調子で家を出て、そのまま妻や友人に気取られることなく、数十年、自宅の真向かいのアパートに住み、誰もが彼は死んでもう戻ってこないと、そんなことすら考えもせず忘れてしまった頃に、何食わぬ顔で妻の元に戻ってきたのです。

話の筋はこれだけ。
誰もが思いもしない、思いついたとして実行もしないことを成し遂げた男の話。
この話には何の意味もありません。
嫉妬や怒りや誘惑や冒険などという気の利いたスパイスは露程もなく。
ただ単純にウェイクフィールドの愚かな思い付きが、何の考慮もなく実行されたというお話。
当時文壇では相当な批判を受けていたホーソーンの問題作。
しかし、この奇怪な小品を僕は今前のめり気味に評価し、ウェイクフィールドの愚行を称賛したい。
あまりにも馬鹿げた思い付きが実行された背景には、日々を営んでいくことへの膿と他人への配慮が欠けた性格(こちらは小説内で言及されている)があったことは隠しようのない事実だと思います。
そしてその原因には自己陶酔、自己憐憫、極限にまで膨れ上がった自我に基づいたものであるのは間違いないと思うんです。
他者を遠くへ押しやって、確立された完全なる自我の世界。
たった一人の世界で成し遂げた。「愚者の贈り物」
そしてそれを無味乾燥に、たった一人の創造物である小説に落とし込んだホーソーン。
僕はそれは大きな偉業だと、これこそが発想の賜物だと思うのです。


しかし果たして、これを指して愚者と嗤えるほど我々は知恵者なのでしょうか。
「ザ・トーナメント」
こんにちはニセ村浜淳です。
さてみなさん、どのような映画がお好きでしょうか?
泣ける映画?楽しい映画?ハラハラドキドキする映画?恋愛映画?
などなど、好きな映画は千差万別で人それぞれでしょうが、それでいい。
みんな違ってみんないい。
そうです、誰かと同じなんてくだらない。みんな自分だけの花を咲かそうぜ!

というカスがのたまう末法思想的な考えとニセ村浜淳の件は、便所の隅にある謎の小さなゴミ箱に
そっと捨て、本題に入りましょう。
やっぱり映画はどうやって人が死ぬかに限るでしょう!
映画は見世物なので、非現実的なものであればあるほど素晴らしいし。
人が死ぬ瞬間を、今まさに死ぬ人間の視点から見ることが出来るという素晴らしい発明を
楽しめない人はもうダメだ。精神が死んでる。良いことなんて一つもない人生だ。
映画に芸術性を求めるのもいいですが、どれだけ芸術を愛する人でもオッパイやチンチンより
芸術を選ぶ人はいないでしょう。もしそれよりも芸術を選ぶと言い張る人がいれば、その人のことを
信用してはいけません、大嘘つきの大悪人の異常性愛者です。通報しましょう。

要するに人が死んでオッパイが出る映画は最高だし、それでいて面白ければなにも言うことはないってわけ。

■あらすじ■
世界中の殺し屋をロンドンに集め、最後の一人になるまで殺し合いをさせる。
もちろん金持ちが賭けの対象にしている。

以上。
ほんとにこれだけの話し。

ロバート・カーライル(ベグビーやってた頃が懐かしい)がアル中の神父役で、ケチな理由から
殺し屋№1決定戦に巻き込まれていくのだが、そんなことはどうでもいい。
なぜこんな映画のことを書いているかというと、2012年公開映画の中でこの映画が群を抜いて
素晴らしいシーンが一箇所あり、それだけで今年の映画ベスト10(キネ旬)に入ってもおかしくない映画だと
思っているからだ。
そのシーンとは「エクスペンダブルズ2」でも大活躍した、スコット・アドキンス演じる元ロシア軍人殺し屋が、
自分の体に付けている手榴弾のピンを知らないうちに外されていたことに気づいたときのシーンだ!
ガッカリという言葉でしか表現しようのないあの瞬間!
あの瞬間があるだけで最高に幸せな気分になれる。
これは2009年№1映画である「パニッシャーウォーゾーン」でも実証済み。
普通に生きていれば絶対に見ることのできない、人が爆死する前の絶望的諦観を見ずして
なにが映画だ!なにが人生だ!

そんな映画はバカが見るもんだなんていっぺんでも思うてみろ、そん時ゃ、そん時ゃ、テツヤ、死ね!
今も聞こえる、あのおふくろの声
ぼくに人生を教えてくれた
やさしいおふくろ

あ、オッパイも出るし臓物もたっぷりなのでほんと良い映画ですよ。
ザトーナメント

第一話 「悪の誘惑」 ジェイムズ・ホッグ
僕が読んだ、あるいは聞いた、はたまた観た物語のなかで、
ああこれは恐ろしい話だな。自身に降りかかるとものすごく嫌だな。と感じた最たるモノに
荒木飛呂彦氏が描いたマンガ「魔少年ビーティー」のそばかすの不気味少年事件というのがありまして、
読者諸兄もよくご存知の通り、この話は主人公の父親がとある事故を起こしてしまい
そこから被害者家族が主人公宅に寄生するというとてもいやーなお話であります。
この、実際に起こり得る恐怖、人が人に対して実行し得る悪意。
それが幼い僕には妙に生々しく感じられ、明日にでも突然我が身に起こるのではないか、家人が見知らぬ悪意ある誰かを突然連れてくるのではないかと、家に出入りする見知らぬ人々に恐怖を抱いていた時期があったものです。


しかしこの一見フィクションに思える荒木氏のストーリーも現代に当てはめて考えてみると、
傍若無人に振舞うバカ。我が事しか考えないバカ。社会的正邪の判断を誤るバカ、の大量発生により、
時代錯誤も甚だしい、「悪魔」という存在を21世紀にして、すぐそこにある危機として感じずにはいられないのが正直なところではないでしょうか。
そしてその社会的正邪を良しとできない時代に必要になってくる、されるべきもの、「悪魔」という舞台装置に対して用いられる解決策。
それは「宗教」なのではないでしょうか。


などと無神論者、唯物主義も甚だしいバカの僕がいうと大層、的はずれな主張になってしまいそうですが、
その「宗教」の持つ絶対的善悪を冷笑的に風刺した作品がホッグ氏の描く「悪の誘惑」なのであります。


あらすじを簡潔に記すとすれば、物語は17世紀後半から18世紀の宗教的軋轢の絶えないスコットランド。
宗教的見地が全くに二分した二人が結婚をし、二人の子を持つ。その二人の子が全く正反対の教えの下に育ち、反目し。かたや悪意に翻弄される憂き目に会い、かたや悪魔にそそのかされ続けるという概略だけで判断すれば滑稽話ともとれる物語。事実導入部である夫婦の掛け合いはまさに落語の滑稽噺とでもいうべき塩梅。意思の疎通の適わない二人のやりとりは少しばかりクスッとなってしまう部分もあるのですが、息子たちの代になってからはゴシックホラーの装いを濃くしていきます。


悪魔にそそのかされ、その者自身が悪魔の様な行動で語られる弟。どう考えても良感情を抱けない描写。
対して好漢として描かれる兄。善として捉えられるを目的とした語り。
しかし、その実、宗教的には、現代での判断はさておき、善とされるべき崇高で高邁な考えの持ち主は弟であり。その自負もあって兄をより一層憎しと思うのであります。
宗教的善悪に囚われた結果。必要ではない決断を強いられる者の悪意への誘惑。
それが二部構成で非常にうまくおもしろく描かれております。


一部は第三者的叙述から事実のみを描き。
二部は犯罪者に墜ちた弟の手記でもって、一部で語られた誤謬を、弟の主観を用いて更なる誤謬を描くという趣向。
さらにエピローグ的な三部では弟の手記発掘に至るまでの経緯を、作者自身が巧妙な舞台装置として登場するという手の込みよう。
当時発刊されていた雑誌に実際に掲載された作者寄稿による手紙が物語の一部を成していたという大仕掛け。
現代の小説でも数少ない、小説としての娯楽を追求した一品であります。


当世の悪という価値観そのものが、社会的見地からだけで判断されたものなのだとすれば
それこそが「悪意」であり、それを声高に叫ぶ人々こそ「悪魔」と呼ぶに相応しいものなのかもしれません。
【危険なメソッド】
冬のお風呂は危険だ。冷えた体に熱いお湯をぶっかけると心臓がびっくりして止まるぞ!
寝タバコは危険だ。火のついたタバコをほったらかしにして寝ると、家が全焼するぞ!
素人のフグ料理は危険だ。美味しいね美味しいねとパクパク食べてると、死ぬぞ!

と、いうわけで身近に危険は溢れかえっているわけで、
怖いことこの上ない世の中なんですが
「もう危険だからやめようよぉ」なんて言ってると人類は進歩しませんし、
行きずりの女とセックスするなんて出来るわけがないのです。
人類の進歩と行きずりの女とのセックスは常に危険と隣り合わせで、
現代の文明は全て危険に挑んだ結果の産物と言っても過言ではないでしょう。

初めて飛行機を作って飛んだ兄弟はどうですか?
たぶん親からは、そんな危険なことをせずに安全なことをしてくれ!
と散々言われたと思うんすよ。俺。
でもね、あいつらそれを無視してやったんすよ、デカイこと!
だから!先輩!俺!おれぇ…デカイこと…やりてぇ…。
まだ…俺たち終わってないっすよね…

■あらすじ■
かの有名なユングさんとフロイトさんの出会いから離別。
ファムファタールとしてサビーナも出るよ。
多少のインテリゲンチャなら知ってて当然のお話しなので、あらすじ書くなんて野暮。
おでは全然しらないよ~というマヌケは「サビーナ ユングとフロイトの運命を変えた女」を読むか、Wikiでユングを調べなさい。
ほんと少しもユングとか知らない状態でこの映画を観たら、
おそらく上映時間が苦痛でしかないから。
クローネンバーグ作品の中でヴィゴ・モーテンセンがフルチンで戦う映画だけ観て、
「この監督好きかもぉ」と手を出すと火傷しますよ!
いや火傷はしない。そんな古臭い表現は嫌だ。
しかし、新しい表現なんてそんな簡単には思いつかないもんだな~。

この映画はキーラ・ナイトレイ(貧乳でも好きだ)の
笠井叡と麿赤児を足して志村けんで割ったような顔芸が凄いわけなんですが、
それよりもクローネンバーグが「スパイダー 少年は蜘蛛にキスをする」以来の精神疾患ものを撮って、
確実に面白くなっていることが重要なんですよ。
それぞれの人物が映画の文脈の中でわかりやすく設定されていることが面白さの要因ではないでしょうか。
例えば、ユングなんて登場した頃は欲求不満の塊で、
奥さんを愛してないし、子供なんていらないけど世間体と奥さんの実家が金持ちだから
結婚生活を続けているような男として描かれている。
その表現として満たされない欲求を食欲にぶつけるシーンが多い。
フロイトの家で大家族を前に常軌を逸した量の肉巻き的なものを自分の皿に取るからね、アイツ。
あんなに取ったら子供たちが肉巻き的なもの食べれないことなんておかまいなし。
でもね、ヴァンサン・カッセルにケツ叩かれてサビーナとパラフィリアセックスしてからは
食事のシーンなし。
サビーナと別れて次のシーンには食事といったわかりやすさ。もはやサービスの域!
こんな映像としてわかりやすい表現が色々と出てくるので、
見ていて混乱することはないし、だからこそ時間の経過とともに変わっていく
登場人物たちの心情が嫌でも伝わるってもんですよ。
それでもわからん!って奴はダメだ。バカだ。こち亀THE MOVIE以外観るな。

つまり、クローネンバーグ映画としてはすごく真っ当でテーマは結局、精神的な要因からの
肉体の変質といったことであって、さらに今回はそれをユングとフロイトといった人物を通し
史実に基づいて描いている分映像としてはかなり地味なのだが、
熟練の技で退屈ではなく隙の無い映画に仕上がっているのではないでしょうか。

精神医学の基礎を作り上げた人物たちが、不倫やスパンキングなど危険な行為に挑戦してくれたことで
現代に生きる我々も精神の安定を持って変態セックスに挑めるわけで、
やっぱビビってちゃ前に進めねーよ!

危険な