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第一話 「悪の誘惑」 ジェイムズ・ホッグ
僕が読んだ、あるいは聞いた、はたまた観た物語のなかで、
ああこれは恐ろしい話だな。自身に降りかかるとものすごく嫌だな。と感じた最たるモノに
荒木飛呂彦氏が描いたマンガ「魔少年ビーティー」のそばかすの不気味少年事件というのがありまして、
読者諸兄もよくご存知の通り、この話は主人公の父親がとある事故を起こしてしまい
そこから被害者家族が主人公宅に寄生するというとてもいやーなお話であります。
この、実際に起こり得る恐怖、人が人に対して実行し得る悪意。
それが幼い僕には妙に生々しく感じられ、明日にでも突然我が身に起こるのではないか、家人が見知らぬ悪意ある誰かを突然連れてくるのではないかと、家に出入りする見知らぬ人々に恐怖を抱いていた時期があったものです。


しかしこの一見フィクションに思える荒木氏のストーリーも現代に当てはめて考えてみると、
傍若無人に振舞うバカ。我が事しか考えないバカ。社会的正邪の判断を誤るバカ、の大量発生により、
時代錯誤も甚だしい、「悪魔」という存在を21世紀にして、すぐそこにある危機として感じずにはいられないのが正直なところではないでしょうか。
そしてその社会的正邪を良しとできない時代に必要になってくる、されるべきもの、「悪魔」という舞台装置に対して用いられる解決策。
それは「宗教」なのではないでしょうか。


などと無神論者、唯物主義も甚だしいバカの僕がいうと大層、的はずれな主張になってしまいそうですが、
その「宗教」の持つ絶対的善悪を冷笑的に風刺した作品がホッグ氏の描く「悪の誘惑」なのであります。


あらすじを簡潔に記すとすれば、物語は17世紀後半から18世紀の宗教的軋轢の絶えないスコットランド。
宗教的見地が全くに二分した二人が結婚をし、二人の子を持つ。その二人の子が全く正反対の教えの下に育ち、反目し。かたや悪意に翻弄される憂き目に会い、かたや悪魔にそそのかされ続けるという概略だけで判断すれば滑稽話ともとれる物語。事実導入部である夫婦の掛け合いはまさに落語の滑稽噺とでもいうべき塩梅。意思の疎通の適わない二人のやりとりは少しばかりクスッとなってしまう部分もあるのですが、息子たちの代になってからはゴシックホラーの装いを濃くしていきます。


悪魔にそそのかされ、その者自身が悪魔の様な行動で語られる弟。どう考えても良感情を抱けない描写。
対して好漢として描かれる兄。善として捉えられるを目的とした語り。
しかし、その実、宗教的には、現代での判断はさておき、善とされるべき崇高で高邁な考えの持ち主は弟であり。その自負もあって兄をより一層憎しと思うのであります。
宗教的善悪に囚われた結果。必要ではない決断を強いられる者の悪意への誘惑。
それが二部構成で非常にうまくおもしろく描かれております。


一部は第三者的叙述から事実のみを描き。
二部は犯罪者に墜ちた弟の手記でもって、一部で語られた誤謬を、弟の主観を用いて更なる誤謬を描くという趣向。
さらにエピローグ的な三部では弟の手記発掘に至るまでの経緯を、作者自身が巧妙な舞台装置として登場するという手の込みよう。
当時発刊されていた雑誌に実際に掲載された作者寄稿による手紙が物語の一部を成していたという大仕掛け。
現代の小説でも数少ない、小説としての娯楽を追求した一品であります。


当世の悪という価値観そのものが、社会的見地からだけで判断されたものなのだとすれば
それこそが「悪意」であり、それを声高に叫ぶ人々こそ「悪魔」と呼ぶに相応しいものなのかもしれません。
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