ANAL CUNTである。
これはハードコア、パンクバンドらによるTHE SMITHSトリビュート盤収録の1曲。
だがこの曲はモリッシーがソロでやってるやつのカバー。
大多数のTHE SMITHS~モリッシーのファンからすると
只の悪ふざけ、冒涜だと感じるかもしれないが……
本人歌唱のものと聴き比べてみてもどうだろうか?
原曲が持つ孤独感、切羽詰まった感じを別の角度から上手く捉えていると思いませんか?
ただ単にそういう企画の話しが来たので適当にカバーした、という風には全く聴こえない。
この 「You're gonna need someone on your side 」という曲の
You とは誰かに「俺という味方がついているから安心しな」と
エールを送っているということではなく、
辛く苦しい状況に置かれた人が、頼れる人も無く
歌詞にあるような言葉で独り自らを励ましている。
という You ではないだろうか。
原曲のどこか独り言のような感じが
殺伐とした演奏とボーカルによって
所謂ところの「でも、やるんだよ!」という己に対する絶叫となっている名カバーだと思う。
モリッシーとセス、皮肉屋で繊細である点では両者に近いものを感じる。
もちろん、二人とも会った事などないので、それぞれの作品などから受けた勝手な印象だが。
我らが美しい国「ニッポン」が、アベノミクスにより景気回復の兆しをみせはじめているかどうかは、今期ボーナスが大幅にカットされた私のような労働者には全くもって実感がない。しかし、そんな私でも自信を持って言えることがある。美しい筋肉スター「シルベスタ・スタローン」は、今間違いなくバブル期にあるということだ。「ランボー最後の戦場」「エクスペンダブルズ」以降のスタローンの快進撃は、それ自体好きかどうかは別としても、好事家の皆様なら周知の事実だろう。かくいう私も、エクスペンダブルズは1も2も大好きだ。しかし、バブルであるからこそ冷静であろうとする自分もいる。スタローンってだけで手放しに賞賛するムードさえある今だからこそ、次回作は冷静に観なくてはならない。なんなら、劇場はスルーしてレンタルになるまで待つくらいが、温度としては丁度良いのかもしれないな。と、エクスペンダブルズ2の特典ディスクを観ながら次回作について思いをめぐらせたその数ヵ月後に見た劇場のチラシにはこう書かれていた。「バレット 監督ウォルター・ヒル×主演シルベスタ・スタローン」
冷静でいられるはずがない。ウォルター・ヒルが10年振りにメガホンを取り、スタローンが主演をはるというなら、これは嫁を質に入れてでも問答無用で劇場に足を運ばなければならない。70年中盤より、「ウォーリアーズ」「48時間」「ストリート・オブ・ファイアー」など、あらゆる男の生き様を撮り続けてきた御大が、同時期に文字通り裸一貫で男の生き様を体現し、現状あらゆる世代から最も信頼され最も頼られる男を主演に映画を撮るのだ。エクスペンダブルズが参加自由の男祭りなら、こちらは参加強制のブートキャンプのようなものだ。
【あらすじ】
ニューオリンズの殺し屋、ジミー・ボノモ(通称:ボボ)は何者かに相棒を殺されてしまう。落とし前をつけるために、黒幕を追うボボは、同じ事件を追うワシントン警察の刑事テイラー・クォンと反発しあいながらも協力し、事件の真相に迫っていく。
はい、単純明快。これだけシンプルなストーリーであればこそ、いかに観客を飽きさせないか、どう持ち味を入れるのか、監督の手腕が問われる。まず、舞台が良い。ロスでは舞台としてやりつくされてるし、ボボの渋みを照らすには少々日差しが強すぎる。ニューヨークってのもなんか違う。21世紀のニューヨークは、セックス・アンド・ザ・シティーであり、女性的なイメージすらも与えかねないキャリアの中心地。シカゴってのも悪くないかもしれないが、シカゴはいつ覆面をかぶった強盗集団が黄色いスクールバスで突っ込んでくるとも限らない危険な街だ。ボボが生きるには常軌を逸しすぎている。となると、ニューオリンズがベスト。メタルでもパンクでもブルースでもない、ジャズとファンクの街こそボボが生きる街には最もふさわしい。制作に関してニューオリンズは免税があるとかないとかそんなことボボには関係ない。ニューオリンズ以外考えられない。
あらすじだけを見ると、シンプルなバディムービーであり、「48時間」のウォルター・ヒルからするとしごくストレートな設定にみえるが、ボボのバディとなるワシントン警察のテイラー刑事は韓国系アメリカ人であるというところにひねりが効いている。古き良き大人の街に生きるビンテージ感たっぷりのダーティーヒーローであるボボに対して、スマホとモバイル機器を駆使して清く正しい正義を貫く若き刑事テイラーは、アジア系を含めた有色人種が人口の大半を占めるアメリカにおける新しい(現代的な)アメリカ人の価値観の象徴として機能している。こうした各キャラクターが己の信念と生き方を誇示しぶつかり合うところにこそバレットの神髄がある。
己の信念とルールは絶対にブラさない殺し屋稼業。法による正義をまっとうしようとする若き刑事。金こそ全てであると豪語する不動産王。プロとしてのプライドを誇示する傭兵。良い奴も悪い奴もそれぞれにルールがあり、誰もその信念を曲げない。屈さない。そして死んでいく。だからカッコイイ。
エンドロールの暗闇の中、果たして自分にこれほどの確固たる信念とルールがあるだろうかと考えてしまう。ボボに銃口をつきつけられ問われている気分だ。生半可な返事をした時、あいつは容赦なく引き金を引くだろう。そうならないためにも、すべての男子はこの映画を観て、恥ずかしくない男の生き方を学ぶべきなのだ。
映画を観るということは人生の予行演習であり、「バレット」は通過儀礼的成長を遂げにくい現代における兵役義務である。兵役から無事に戻ってきたら、君はもう立派な大人の男だ。
冷静でいられるはずがない。ウォルター・ヒルが10年振りにメガホンを取り、スタローンが主演をはるというなら、これは嫁を質に入れてでも問答無用で劇場に足を運ばなければならない。70年中盤より、「ウォーリアーズ」「48時間」「ストリート・オブ・ファイアー」など、あらゆる男の生き様を撮り続けてきた御大が、同時期に文字通り裸一貫で男の生き様を体現し、現状あらゆる世代から最も信頼され最も頼られる男を主演に映画を撮るのだ。エクスペンダブルズが参加自由の男祭りなら、こちらは参加強制のブートキャンプのようなものだ。
【あらすじ】
ニューオリンズの殺し屋、ジミー・ボノモ(通称:ボボ)は何者かに相棒を殺されてしまう。落とし前をつけるために、黒幕を追うボボは、同じ事件を追うワシントン警察の刑事テイラー・クォンと反発しあいながらも協力し、事件の真相に迫っていく。
はい、単純明快。これだけシンプルなストーリーであればこそ、いかに観客を飽きさせないか、どう持ち味を入れるのか、監督の手腕が問われる。まず、舞台が良い。ロスでは舞台としてやりつくされてるし、ボボの渋みを照らすには少々日差しが強すぎる。ニューヨークってのもなんか違う。21世紀のニューヨークは、セックス・アンド・ザ・シティーであり、女性的なイメージすらも与えかねないキャリアの中心地。シカゴってのも悪くないかもしれないが、シカゴはいつ覆面をかぶった強盗集団が黄色いスクールバスで突っ込んでくるとも限らない危険な街だ。ボボが生きるには常軌を逸しすぎている。となると、ニューオリンズがベスト。メタルでもパンクでもブルースでもない、ジャズとファンクの街こそボボが生きる街には最もふさわしい。制作に関してニューオリンズは免税があるとかないとかそんなことボボには関係ない。ニューオリンズ以外考えられない。
あらすじだけを見ると、シンプルなバディムービーであり、「48時間」のウォルター・ヒルからするとしごくストレートな設定にみえるが、ボボのバディとなるワシントン警察のテイラー刑事は韓国系アメリカ人であるというところにひねりが効いている。古き良き大人の街に生きるビンテージ感たっぷりのダーティーヒーローであるボボに対して、スマホとモバイル機器を駆使して清く正しい正義を貫く若き刑事テイラーは、アジア系を含めた有色人種が人口の大半を占めるアメリカにおける新しい(現代的な)アメリカ人の価値観の象徴として機能している。こうした各キャラクターが己の信念と生き方を誇示しぶつかり合うところにこそバレットの神髄がある。
己の信念とルールは絶対にブラさない殺し屋稼業。法による正義をまっとうしようとする若き刑事。金こそ全てであると豪語する不動産王。プロとしてのプライドを誇示する傭兵。良い奴も悪い奴もそれぞれにルールがあり、誰もその信念を曲げない。屈さない。そして死んでいく。だからカッコイイ。
エンドロールの暗闇の中、果たして自分にこれほどの確固たる信念とルールがあるだろうかと考えてしまう。ボボに銃口をつきつけられ問われている気分だ。生半可な返事をした時、あいつは容赦なく引き金を引くだろう。そうならないためにも、すべての男子はこの映画を観て、恥ずかしくない男の生き方を学ぶべきなのだ。
映画を観るということは人生の予行演習であり、「バレット」は通過儀礼的成長を遂げにくい現代における兵役義務である。兵役から無事に戻ってきたら、君はもう立派な大人の男だ。
マコーマックという作家をこのパラダイスモーテルを読むまでまったく知らなかった。
柴田元幸が帯に紹介分を書いているのだが(もう二度と紹介分は見ないと言ったのに!)予備知識的には「あぁそういった類いのものか」くらいのもので、別段期待も何もなかった。
実際にこんなにも無意味にグロテスクでどこにも帰結しない、その上で文学然としている良作は久々だった。
テイストは阿部公房の作品雰囲気に似ていて「この話はどこか嫌なところに落ち着きそうだ」という期待を常に持たせてくれる。
作品から香り立つ神経質で歪んでいる感じはサリンジャーの「バナナフィッシュにうってつけの日」に通じるものがあるようにも感じる。
あの作品も正に青天の霹靂といったラストを飾るが、パラダイスモーテルもまさに、といった文学的要素に満ち満ちている。
僕はあまり文学的ではない、俗にいうエンタメ小説というものは好まない。
それが俗世的だとか、高尚ではない、ペダンティックでもないといった観点からではなく、ただ偏に、このブログでも愛好者がいるように、映画に勝るものではないと考えているからだ。
エンタメ小説や映画というものは、製作者の意図、采配にもよるが、他者との共有というものに文学との相違点があると考えている。
用いられる記号は単純にして明快で、目にするもの、耳にするもの以上のものはない。というか多分映画的文脈ではそれは廃さなければいけないもののように見受けられる。(そこを逆手にとってというものも当然あるだろうが)観客はアウトラインを辿って歩く。そうして観劇後見たものに対して会話が起こる。勿論それだけではないのは百も承知だが。
文学はその正反対に位置している。
記号は名前だけであり、情景や心象は地の文だけだ。思い描くものは各々で変容し、定まらない。
というか定まらせるものではない。
これがこうだという結果が提示できないのが文学だ。
物語の終わりは、終わりではないし、はたまた始まりでもない。その揺らぎがエンタメ小説や映画とは大いに異なるところであって、そしてその揺らぎの幅は個人が解釈するところだ。
故に文学はほとんど共有することが出来ないし、しても意味がない。そして意味がないことは殊更に文学的だ。
こんなトートロジーを用いることもないほどに、つまり文学はオナニーであり、エンタメ小説の様にセックスではない。
個人の理解してほしいのかしてほしくないのか解らない作品を通じて、読者はナニをしごくのだ。
それをやれ抒情的だ、観念的だ、通俗的だなどと喚いてみても仕方のないことで意味のないだ(これはつまりその行為自体も文学的である!)。
色々なオナニーの仕様があって、様々な偉い人が自分のオナニーを論じているだけだ。だからそれを気にすることもないし自分一人で大いによがればいい。文学とはそういうものだ。
と、僕は考えている。
だから僕はセックスよりもオナニーが好きだ。
パラダイスモーテルはおかずにもってこいだった。すぐにまた読んでオナニーが出来るほどにはおもしろい。
もし興味があって、ちょっとくらい黄ばんでいるのを気にしないというのであれば、お貸ししますのでお声をかけてやってください。
柴田元幸が帯に紹介分を書いているのだが(もう二度と紹介分は見ないと言ったのに!)予備知識的には「あぁそういった類いのものか」くらいのもので、別段期待も何もなかった。
実際にこんなにも無意味にグロテスクでどこにも帰結しない、その上で文学然としている良作は久々だった。
テイストは阿部公房の作品雰囲気に似ていて「この話はどこか嫌なところに落ち着きそうだ」という期待を常に持たせてくれる。
作品から香り立つ神経質で歪んでいる感じはサリンジャーの「バナナフィッシュにうってつけの日」に通じるものがあるようにも感じる。
あの作品も正に青天の霹靂といったラストを飾るが、パラダイスモーテルもまさに、といった文学的要素に満ち満ちている。
僕はあまり文学的ではない、俗にいうエンタメ小説というものは好まない。
それが俗世的だとか、高尚ではない、ペダンティックでもないといった観点からではなく、ただ偏に、このブログでも愛好者がいるように、映画に勝るものではないと考えているからだ。
エンタメ小説や映画というものは、製作者の意図、采配にもよるが、他者との共有というものに文学との相違点があると考えている。
用いられる記号は単純にして明快で、目にするもの、耳にするもの以上のものはない。というか多分映画的文脈ではそれは廃さなければいけないもののように見受けられる。(そこを逆手にとってというものも当然あるだろうが)観客はアウトラインを辿って歩く。そうして観劇後見たものに対して会話が起こる。勿論それだけではないのは百も承知だが。
文学はその正反対に位置している。
記号は名前だけであり、情景や心象は地の文だけだ。思い描くものは各々で変容し、定まらない。
というか定まらせるものではない。
これがこうだという結果が提示できないのが文学だ。
物語の終わりは、終わりではないし、はたまた始まりでもない。その揺らぎがエンタメ小説や映画とは大いに異なるところであって、そしてその揺らぎの幅は個人が解釈するところだ。
故に文学はほとんど共有することが出来ないし、しても意味がない。そして意味がないことは殊更に文学的だ。
こんなトートロジーを用いることもないほどに、つまり文学はオナニーであり、エンタメ小説の様にセックスではない。
個人の理解してほしいのかしてほしくないのか解らない作品を通じて、読者はナニをしごくのだ。
それをやれ抒情的だ、観念的だ、通俗的だなどと喚いてみても仕方のないことで意味のないだ(これはつまりその行為自体も文学的である!)。
色々なオナニーの仕様があって、様々な偉い人が自分のオナニーを論じているだけだ。だからそれを気にすることもないし自分一人で大いによがればいい。文学とはそういうものだ。
と、僕は考えている。
だから僕はセックスよりもオナニーが好きだ。
パラダイスモーテルはおかずにもってこいだった。すぐにまた読んでオナニーが出来るほどにはおもしろい。
もし興味があって、ちょっとくらい黄ばんでいるのを気にしないというのであれば、お貸ししますのでお声をかけてやってください。
ハリウッドサインがまだハリウッドランドと掲げられ、ペグ・エントウィスルがHから投身自殺をする前だろうか、煌びやかなロサンゼルスの街の光を背に、上半身と下半身をそれぞれ別の鎖に繋がれた男が叫ぶ。
「俺にこんなことをしてただで済むと思ってるのか!」
その声はマルホランド・ハイウェイを外れた空き地にむなしくこだますのみ。
男を縛る鎖は2台の車の後部バンパーに巻きつけられ車は空ぶかしを続けている。
そんな男を冷やかな、まるでつまらない物でも見るかのような目で見つめるミッキー・コーエン。
コーエンこそがこの街の影支配者であり、際限ない野心を抱く暴君だ。
「やれ」コーエンが言った次の瞬間、車は走り出し2本の鎖の中心にいた男の上半身と下半身は腸を引きずりながら今生の別れをとげる。
「ここは俺の街だ!」
高らかに宣言するコーエン。
どちらかと言えば汚職警官たちの方がまるでギャングのような…
映画の冒頭はこんなバイオレンスな描写から始まりけっこう期待させるのだが…。
ショーン・ペン演じる悪党のコーエンはまるで「レイジング・ブル」のジェイク・ラモッタのようなバックボーンを持った男だし、そのコーエンに対抗するための組織される超法規警察ギャング部隊(原題がGangster Squadなのでこれが正式なタイトル)に続々と集う男たちも個性的な面々で燃える展開を期待させるが、これが期待通りの展開ながら始まりから終わりまで肩透かしを食らう不思議な映画になっていてズッコケタ。
善と悪の男たちの熱い戦いを描くはずの映画が、ただのアクション映画になってしまった原因の多くは監督であるルーベン・フライシャーの資質にあると思う。
処女作の「ゾンビランド」が高い評価を得て、「ピザボーイ」でコケたが3作目で大バジェットの「LAギャングストーリー」を撮るに至るわけだが、そもそも「ゾンビランド」は本当に面白い映画だったのか?
確かに退屈はしない映画だったし、ウディ・ハレルソンもエマ・ストーンも好演していた。
ジェシー・アイゼンバーグも愛くるしい童貞臭を放つ、実に「らしい」役柄だった。
キャスティングは本当に最高だし、「ショーン・オブ・ザ・デッド」より後発だとは言え、ゾンビコメディ映画としては健闘している映画だったとは思う。オープニングにスーパースローで世界が荒廃していく様子を描く映像は素晴らしい出来だ。しかし、「ゾンビランド」は「ショーン・オブ・ザ・デッド」にはあったとても大事な要素が決定的に2つ欠けている。
このオープニングは良かった。本当にここだけは良かった。
1つ目。ゾンビ映画に対する愛が無い。
「ショーン・オブ・ザ・デッド」が世界の度肝を抜いたのは、コメディという形ではあってもそこに本当にゾンビ映画を大好きな気持ちが詰まったオタク映画としての完成度が凄いレベルだったからだ。
荒削りで強引な部分が多々あるがゾンビ愛がそれを凌駕していた。
それに引き換えストーリーを整理する能力と、ミュージックビデオの撮影で培ったテクニックはあってもルーベン・フライシャーが本当にゾンビ映画を撮りたかったかと思うと甚だ疑問である。
ゾンビ映画である以上は主役はゾンビであるはずなのだが、「ゾンビランド」のゾンビは見た目が本当に頭で想像するようなゾンビで、人間だった頃の生活臭やゾンビになってしまった哀れな感じがほとんどしないのだ。
ただ形式的なゾンビ。この形式的という感覚は「LAギャングストーリー」でも発揮される。
たぶんルーベン・フライシャーはゾンビ好きじゃないだろ。監督する前にそれなりに勉強したとは思うけど、こんなキレイなゾンビを撮る人はゾンビの本質は掴んでない人に違いない。
あと、ギャング映画も好きじゃないだろ?え?フライシャーさんよ。
2つ目。笑えない。
「ピザボーイ」で笑いのセンスは皆無だと判明したルーベン・フライシャー。だから今回は笑い無しのギャング映画に挑んだのは正解だけど、ギャング映画はユーモアがもたらす緊張と緩和が最も必要なジャンルでもある。
「LAギャングストーリー」は笑えるところが見当たらず、コーエンのテーブルマナーのくだりなど笑わそうとしているのかしらと思う箇所すらスベッているので、会話が平坦でそれが全体をダラダラとした雰囲気にまでしている。
「ショーン・オブ・ザ・デッド」は笑えた。queenの「don't stop me now」に合わせてゾンビをしばくシーンで笑ったあとに人が惨たらしく死ぬのは最高だった。
どんな映画でもユーモアは必要だが、ギャング映画には本当に必要な要素だ。
「グッドフェローズ」でちびのトミーは笑うに笑えない人物で恐るべき緊張感を演出しつつも妙におかしいし、本当にこんな人いるなぁと思わせるリアリティもユーモアがもたらしていた。
「アンタッチャブル」でネスが仲間を集めるシークエンスはユーモアのある演出だが後半の命がけの戦いに身を投じる男たちのユーモアのない世界に対してのコントラストとして機能していたりと、ギャング映画のみならず男が命がけの仕事や戦いをする映画こそユーモアが必要なのだ。
戦争映画でも冗談を言った兵士が次の瞬間には頭を撃ち抜かれて死ぬなんて演出はよく見かけるし、なぜそんなことをするかというと、笑い合うといった生の輝きこそが死の悲惨さを際立たせることになるからだ。
だから登場人物と笑い合えない「LAギャングストーリー」は死んでいく男たちに最後まで共感することが出来ない。書き割りの人物が予想通りの順番で面白みもなく死んでいくだけになっている。
この2つの要素を欠いた「LAギャングストーリー」が男の魂をダイソンの掃除機のように吸引することは当然なく、まるで五十路の風俗嬢の尺八の如く緩やかな吸い込みなのだ。
五十路の風俗嬢代表と言えばこの人ですよね~。お美しいですよね~。
しかし、ここからが本当に困ったことなのだが、だからといってこの映画が最低でつまらないクズ映画とは言えないところが危険なのだ。
テンポの良いストーリー展開と派手な銃撃戦があり、形式的にコマとして動いている俳優たちだがショーン・ペンとライアン・ゴズリングはやっぱりかっこいい見せ場をつくる。だから見ていて退屈はしない映画になっている。
知的障害者のおじさんを演じ失笑を買ったショーン・ペンとダッチワイフを彼女にしていたライアン・ゴズリングが女を取り合うようになるなんて世の中は不思議だ。
つまり見やすい映画なので「ちょっと映画でも見ようかな」と思う男子や、「ゴズリング様が出てる映画だから見るわ!」てな女子の要望には応える内容となっている。
これは困った。
一見して知能指数が底辺だとわかるマイケル・ベイの映画のようではなく、ちゃんとした映画になっている分たちが悪い。内容はマイケル・ベイ映画と変わらないような空虚なものなのに、これを良い映画だと勘違いする野郎が出てきてもおかしくない映画なのだ。これで勘違いすると今後の人生に大きく影響するよ。
なぜならこの映画は一生懸命作ったとは思えない作品で、そんな物に感動してるようじゃ上辺だけを見て判断する安い人間になってしまうってもんですよ!
一生懸命じゃなくてもなんとなくで仕事をこなす人っているじゃないですか?
とくに近頃の20代に多い気がするのは偏見だとしても、器用に無難にこなす人間が多くなってきてる気がするんですよ。こいつらの生き方は見ていて不愉快だけど、話してみれば悪い奴じゃないので本当に困る。
で、だいたいこいつらは親と仲がいいので実家暮らし、酒は飲めるけど酔うほどは飲まない、車は買わない、スマートフォンがあるのでPCも持たない、マンガといえば「ワンピース」、彼女・彼氏はいるが結婚する気はない。
のような奴ばっかで、嫌なやつじゃないけど全く面白くもない。
どこでそんな器用な生き方を学んできたのか知らんが、そんな人生の脇役に甘んじるような姿勢は気に食わない。
「これでいいんでしょ」って感じはこっちをバカにしてることに気づいてほしい。
ルーベン・フライシャーくん。君のことでもあるんだよ。
こんな生ぬるい映画ばかりとってそこそこの収益さえ上げればいいかと思っているなら、いますぐ逃げた方いい。
俺がゆるキャラの格好をしてお前のケツ穴に生ぬるいモノを突っ込みに行くからな!
とにかく「LAギャングストーリー」は男の汗や血や硝煙の臭いがまったく漂ってこないキレイな映画だ。
なぜ漂ってこないのか?
この映画には魂がないからだ。
悪党コーエンもある男とのボクシングでの決闘は断るくせに、最後は主人公とボクシングする。このことでもわかるように、コーエンにとってのボクシングが心の在りどころと演出するのではなく、ただのアクションの見せ場として添え物にしてしまっている。で、結局は殴り合いで負ける!
ライアン・ゴズリングは靴磨きの少年が銃撃戦に巻き込まれ命を落としたことをきっかけにギャングと戦うことを決意するが、ゴズリングにとって靴磨き少年がどのような存在かわかりにくく、女のために戦ってるようにしか見えなくなってくる。ゴズリングも元靴磨き少年で貧困から這い上がった人間のような描きかたをすれば、どのような目線で少年の死を捉えたのかがわかるというものだが、映画では数回話しただけの少年に思い入れがあったように見えない。
その他の部隊の仲間たちもバックボーンが極めて薄くどんな気持ちで悪と対峙する道を選んだのかがわからない。
それゆえに感情移入も出来ないし、死んでもなんとも思えない。
ちなみに少しでも映画というものを見ていれば、死ぬのは登場した瞬間にコイツとコイツだ!とわかるほどの人物造形になってます。
バカでもわかりそうなことを説明セリフで補足してくれるし、まるで日本のテレビ局が作った映画なみの丁寧さですよ。
同時期に上映している「バレット」の爪の垢を煎じて飲ませたい映画。
そうだ!
「バレット」をもう一度観よう!!
ボボ
「俺にこんなことをしてただで済むと思ってるのか!」
その声はマルホランド・ハイウェイを外れた空き地にむなしくこだますのみ。
男を縛る鎖は2台の車の後部バンパーに巻きつけられ車は空ぶかしを続けている。
そんな男を冷やかな、まるでつまらない物でも見るかのような目で見つめるミッキー・コーエン。
コーエンこそがこの街の影支配者であり、際限ない野心を抱く暴君だ。
「やれ」コーエンが言った次の瞬間、車は走り出し2本の鎖の中心にいた男の上半身と下半身は腸を引きずりながら今生の別れをとげる。
「ここは俺の街だ!」
高らかに宣言するコーエン。
どちらかと言えば汚職警官たちの方がまるでギャングのような…
映画の冒頭はこんなバイオレンスな描写から始まりけっこう期待させるのだが…。
ショーン・ペン演じる悪党のコーエンはまるで「レイジング・ブル」のジェイク・ラモッタのようなバックボーンを持った男だし、そのコーエンに対抗するための組織される超法規警察ギャング部隊(原題がGangster Squadなのでこれが正式なタイトル)に続々と集う男たちも個性的な面々で燃える展開を期待させるが、これが期待通りの展開ながら始まりから終わりまで肩透かしを食らう不思議な映画になっていてズッコケタ。
善と悪の男たちの熱い戦いを描くはずの映画が、ただのアクション映画になってしまった原因の多くは監督であるルーベン・フライシャーの資質にあると思う。
処女作の「ゾンビランド」が高い評価を得て、「ピザボーイ」でコケたが3作目で大バジェットの「LAギャングストーリー」を撮るに至るわけだが、そもそも「ゾンビランド」は本当に面白い映画だったのか?
確かに退屈はしない映画だったし、ウディ・ハレルソンもエマ・ストーンも好演していた。
ジェシー・アイゼンバーグも愛くるしい童貞臭を放つ、実に「らしい」役柄だった。
キャスティングは本当に最高だし、「ショーン・オブ・ザ・デッド」より後発だとは言え、ゾンビコメディ映画としては健闘している映画だったとは思う。オープニングにスーパースローで世界が荒廃していく様子を描く映像は素晴らしい出来だ。しかし、「ゾンビランド」は「ショーン・オブ・ザ・デッド」にはあったとても大事な要素が決定的に2つ欠けている。
このオープニングは良かった。本当にここだけは良かった。
1つ目。ゾンビ映画に対する愛が無い。
「ショーン・オブ・ザ・デッド」が世界の度肝を抜いたのは、コメディという形ではあってもそこに本当にゾンビ映画を大好きな気持ちが詰まったオタク映画としての完成度が凄いレベルだったからだ。
荒削りで強引な部分が多々あるがゾンビ愛がそれを凌駕していた。
それに引き換えストーリーを整理する能力と、ミュージックビデオの撮影で培ったテクニックはあってもルーベン・フライシャーが本当にゾンビ映画を撮りたかったかと思うと甚だ疑問である。
ゾンビ映画である以上は主役はゾンビであるはずなのだが、「ゾンビランド」のゾンビは見た目が本当に頭で想像するようなゾンビで、人間だった頃の生活臭やゾンビになってしまった哀れな感じがほとんどしないのだ。
ただ形式的なゾンビ。この形式的という感覚は「LAギャングストーリー」でも発揮される。
たぶんルーベン・フライシャーはゾンビ好きじゃないだろ。監督する前にそれなりに勉強したとは思うけど、こんなキレイなゾンビを撮る人はゾンビの本質は掴んでない人に違いない。
あと、ギャング映画も好きじゃないだろ?え?フライシャーさんよ。
2つ目。笑えない。
「ピザボーイ」で笑いのセンスは皆無だと判明したルーベン・フライシャー。だから今回は笑い無しのギャング映画に挑んだのは正解だけど、ギャング映画はユーモアがもたらす緊張と緩和が最も必要なジャンルでもある。
「LAギャングストーリー」は笑えるところが見当たらず、コーエンのテーブルマナーのくだりなど笑わそうとしているのかしらと思う箇所すらスベッているので、会話が平坦でそれが全体をダラダラとした雰囲気にまでしている。
「ショーン・オブ・ザ・デッド」は笑えた。queenの「don't stop me now」に合わせてゾンビをしばくシーンで笑ったあとに人が惨たらしく死ぬのは最高だった。
どんな映画でもユーモアは必要だが、ギャング映画には本当に必要な要素だ。
「グッドフェローズ」でちびのトミーは笑うに笑えない人物で恐るべき緊張感を演出しつつも妙におかしいし、本当にこんな人いるなぁと思わせるリアリティもユーモアがもたらしていた。
「アンタッチャブル」でネスが仲間を集めるシークエンスはユーモアのある演出だが後半の命がけの戦いに身を投じる男たちのユーモアのない世界に対してのコントラストとして機能していたりと、ギャング映画のみならず男が命がけの仕事や戦いをする映画こそユーモアが必要なのだ。
戦争映画でも冗談を言った兵士が次の瞬間には頭を撃ち抜かれて死ぬなんて演出はよく見かけるし、なぜそんなことをするかというと、笑い合うといった生の輝きこそが死の悲惨さを際立たせることになるからだ。
だから登場人物と笑い合えない「LAギャングストーリー」は死んでいく男たちに最後まで共感することが出来ない。書き割りの人物が予想通りの順番で面白みもなく死んでいくだけになっている。
この2つの要素を欠いた「LAギャングストーリー」が男の魂をダイソンの掃除機のように吸引することは当然なく、まるで五十路の風俗嬢の尺八の如く緩やかな吸い込みなのだ。
五十路の風俗嬢代表と言えばこの人ですよね~。お美しいですよね~。
しかし、ここからが本当に困ったことなのだが、だからといってこの映画が最低でつまらないクズ映画とは言えないところが危険なのだ。
テンポの良いストーリー展開と派手な銃撃戦があり、形式的にコマとして動いている俳優たちだがショーン・ペンとライアン・ゴズリングはやっぱりかっこいい見せ場をつくる。だから見ていて退屈はしない映画になっている。
知的障害者のおじさんを演じ失笑を買ったショーン・ペンとダッチワイフを彼女にしていたライアン・ゴズリングが女を取り合うようになるなんて世の中は不思議だ。
つまり見やすい映画なので「ちょっと映画でも見ようかな」と思う男子や、「ゴズリング様が出てる映画だから見るわ!」てな女子の要望には応える内容となっている。
これは困った。
一見して知能指数が底辺だとわかるマイケル・ベイの映画のようではなく、ちゃんとした映画になっている分たちが悪い。内容はマイケル・ベイ映画と変わらないような空虚なものなのに、これを良い映画だと勘違いする野郎が出てきてもおかしくない映画なのだ。これで勘違いすると今後の人生に大きく影響するよ。
なぜならこの映画は一生懸命作ったとは思えない作品で、そんな物に感動してるようじゃ上辺だけを見て判断する安い人間になってしまうってもんですよ!
一生懸命じゃなくてもなんとなくで仕事をこなす人っているじゃないですか?
とくに近頃の20代に多い気がするのは偏見だとしても、器用に無難にこなす人間が多くなってきてる気がするんですよ。こいつらの生き方は見ていて不愉快だけど、話してみれば悪い奴じゃないので本当に困る。
で、だいたいこいつらは親と仲がいいので実家暮らし、酒は飲めるけど酔うほどは飲まない、車は買わない、スマートフォンがあるのでPCも持たない、マンガといえば「ワンピース」、彼女・彼氏はいるが結婚する気はない。
のような奴ばっかで、嫌なやつじゃないけど全く面白くもない。
どこでそんな器用な生き方を学んできたのか知らんが、そんな人生の脇役に甘んじるような姿勢は気に食わない。
「これでいいんでしょ」って感じはこっちをバカにしてることに気づいてほしい。
ルーベン・フライシャーくん。君のことでもあるんだよ。
こんな生ぬるい映画ばかりとってそこそこの収益さえ上げればいいかと思っているなら、いますぐ逃げた方いい。
俺がゆるキャラの格好をしてお前のケツ穴に生ぬるいモノを突っ込みに行くからな!
とにかく「LAギャングストーリー」は男の汗や血や硝煙の臭いがまったく漂ってこないキレイな映画だ。
なぜ漂ってこないのか?
この映画には魂がないからだ。
悪党コーエンもある男とのボクシングでの決闘は断るくせに、最後は主人公とボクシングする。このことでもわかるように、コーエンにとってのボクシングが心の在りどころと演出するのではなく、ただのアクションの見せ場として添え物にしてしまっている。で、結局は殴り合いで負ける!
ライアン・ゴズリングは靴磨きの少年が銃撃戦に巻き込まれ命を落としたことをきっかけにギャングと戦うことを決意するが、ゴズリングにとって靴磨き少年がどのような存在かわかりにくく、女のために戦ってるようにしか見えなくなってくる。ゴズリングも元靴磨き少年で貧困から這い上がった人間のような描きかたをすれば、どのような目線で少年の死を捉えたのかがわかるというものだが、映画では数回話しただけの少年に思い入れがあったように見えない。
その他の部隊の仲間たちもバックボーンが極めて薄くどんな気持ちで悪と対峙する道を選んだのかがわからない。
それゆえに感情移入も出来ないし、死んでもなんとも思えない。
ちなみに少しでも映画というものを見ていれば、死ぬのは登場した瞬間にコイツとコイツだ!とわかるほどの人物造形になってます。
バカでもわかりそうなことを説明セリフで補足してくれるし、まるで日本のテレビ局が作った映画なみの丁寧さですよ。
同時期に上映している「バレット」の爪の垢を煎じて飲ませたい映画。
そうだ!
「バレット」をもう一度観よう!!
ボボ
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