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エリック・マコーマック 「パラダイスモーテル」
マコーマックという作家をこのパラダイスモーテルを読むまでまったく知らなかった。
柴田元幸が帯に紹介分を書いているのだが(もう二度と紹介分は見ないと言ったのに!)予備知識的には「あぁそういった類いのものか」くらいのもので、別段期待も何もなかった。
実際にこんなにも無意味にグロテスクでどこにも帰結しない、その上で文学然としている良作は久々だった。
テイストは阿部公房の作品雰囲気に似ていて「この話はどこか嫌なところに落ち着きそうだ」という期待を常に持たせてくれる。
作品から香り立つ神経質で歪んでいる感じはサリンジャーの「バナナフィッシュにうってつけの日」に通じるものがあるようにも感じる。
あの作品も正に青天の霹靂といったラストを飾るが、パラダイスモーテルもまさに、といった文学的要素に満ち満ちている。
僕はあまり文学的ではない、俗にいうエンタメ小説というものは好まない。
それが俗世的だとか、高尚ではない、ペダンティックでもないといった観点からではなく、ただ偏に、このブログでも愛好者がいるように、映画に勝るものではないと考えているからだ。
エンタメ小説や映画というものは、製作者の意図、采配にもよるが、他者との共有というものに文学との相違点があると考えている。
用いられる記号は単純にして明快で、目にするもの、耳にするもの以上のものはない。というか多分映画的文脈ではそれは廃さなければいけないもののように見受けられる。(そこを逆手にとってというものも当然あるだろうが)観客はアウトラインを辿って歩く。そうして観劇後見たものに対して会話が起こる。勿論それだけではないのは百も承知だが。
文学はその正反対に位置している。
記号は名前だけであり、情景や心象は地の文だけだ。思い描くものは各々で変容し、定まらない。
というか定まらせるものではない。
これがこうだという結果が提示できないのが文学だ。
物語の終わりは、終わりではないし、はたまた始まりでもない。その揺らぎがエンタメ小説や映画とは大いに異なるところであって、そしてその揺らぎの幅は個人が解釈するところだ。
故に文学はほとんど共有することが出来ないし、しても意味がない。そして意味がないことは殊更に文学的だ。
こんなトートロジーを用いることもないほどに、つまり文学はオナニーであり、エンタメ小説の様にセックスではない。
個人の理解してほしいのかしてほしくないのか解らない作品を通じて、読者はナニをしごくのだ。
それをやれ抒情的だ、観念的だ、通俗的だなどと喚いてみても仕方のないことで意味のないだ(これはつまりその行為自体も文学的である!)。
色々なオナニーの仕様があって、様々な偉い人が自分のオナニーを論じているだけだ。だからそれを気にすることもないし自分一人で大いによがればいい。文学とはそういうものだ。
と、僕は考えている。
だから僕はセックスよりもオナニーが好きだ。
パラダイスモーテルはおかずにもってこいだった。すぐにまた読んでオナニーが出来るほどにはおもしろい。
もし興味があって、ちょっとくらい黄ばんでいるのを気にしないというのであれば、お貸ししますのでお声をかけてやってください。
なぜ「LAギャングストーリー」は心に響かないのか?無臭ニンニク映画の害悪
ハリウッドサインがまだハリウッドランドと掲げられ、ペグ・エントウィスルがHから投身自殺をする前だろうか、煌びやかなロサンゼルスの街の光を背に、上半身と下半身をそれぞれ別の鎖に繋がれた男が叫ぶ。
「俺にこんなことをしてただで済むと思ってるのか!」
その声はマルホランド・ハイウェイを外れた空き地にむなしくこだますのみ。
男を縛る鎖は2台の車の後部バンパーに巻きつけられ車は空ぶかしを続けている。
そんな男を冷やかな、まるでつまらない物でも見るかのような目で見つめるミッキー・コーエン。
コーエンこそがこの街の影支配者であり、際限ない野心を抱く暴君だ。
「やれ」コーエンが言った次の瞬間、車は走り出し2本の鎖の中心にいた男の上半身と下半身は腸を引きずりながら今生の別れをとげる。
「ここは俺の街だ!」
高らかに宣言するコーエン。
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どちらかと言えば汚職警官たちの方がまるでギャングのような…


映画の冒頭はこんなバイオレンスな描写から始まりけっこう期待させるのだが…。
ショーン・ペン演じる悪党のコーエンはまるで「レイジング・ブル」のジェイク・ラモッタのようなバックボーンを持った男だし、そのコーエンに対抗するための組織される超法規警察ギャング部隊(原題がGangster Squadなのでこれが正式なタイトル)に続々と集う男たちも個性的な面々で燃える展開を期待させるが、これが期待通りの展開ながら始まりから終わりまで肩透かしを食らう不思議な映画になっていてズッコケタ。

善と悪の男たちの熱い戦いを描くはずの映画が、ただのアクション映画になってしまった原因の多くは監督であるルーベン・フライシャーの資質にあると思う。
処女作の「ゾンビランド」が高い評価を得て、「ピザボーイ」でコケたが3作目で大バジェットの「LAギャングストーリー」を撮るに至るわけだが、そもそも「ゾンビランド」は本当に面白い映画だったのか?
確かに退屈はしない映画だったし、ウディ・ハレルソンもエマ・ストーンも好演していた。
ジェシー・アイゼンバーグも愛くるしい童貞臭を放つ、実に「らしい」役柄だった。
キャスティングは本当に最高だし、「ショーン・オブ・ザ・デッド」より後発だとは言え、ゾンビコメディ映画としては健闘している映画だったとは思う。オープニングにスーパースローで世界が荒廃していく様子を描く映像は素晴らしい出来だ。しかし、「ゾンビランド」は「ショーン・オブ・ザ・デッド」にはあったとても大事な要素が決定的に2つ欠けている。
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このオープニングは良かった。本当にここだけは良かった

1つ目。ゾンビ映画に対する愛が無い。
「ショーン・オブ・ザ・デッド」が世界の度肝を抜いたのは、コメディという形ではあってもそこに本当にゾンビ映画を大好きな気持ちが詰まったオタク映画としての完成度が凄いレベルだったからだ。
荒削りで強引な部分が多々あるがゾンビ愛がそれを凌駕していた。
それに引き換えストーリーを整理する能力と、ミュージックビデオの撮影で培ったテクニックはあってもルーベン・フライシャーが本当にゾンビ映画を撮りたかったかと思うと甚だ疑問である。
ゾンビ映画である以上は主役はゾンビであるはずなのだが、「ゾンビランド」のゾンビは見た目が本当に頭で想像するようなゾンビで、人間だった頃の生活臭やゾンビになってしまった哀れな感じがほとんどしないのだ。
ただ形式的なゾンビ。この形式的という感覚は「LAギャングストーリー」でも発揮される。
たぶんルーベン・フライシャーはゾンビ好きじゃないだろ。監督する前にそれなりに勉強したとは思うけど、こんなキレイなゾンビを撮る人はゾンビの本質は掴んでない人に違いない。
あと、ギャング映画も好きじゃないだろ?え?フライシャーさんよ。

2つ目。笑えない。
「ピザボーイ」で笑いのセンスは皆無だと判明したルーベン・フライシャー。だから今回は笑い無しのギャング映画に挑んだのは正解だけど、ギャング映画はユーモアがもたらす緊張と緩和が最も必要なジャンルでもある。
「LAギャングストーリー」は笑えるところが見当たらず、コーエンのテーブルマナーのくだりなど笑わそうとしているのかしらと思う箇所すらスベッているので、会話が平坦でそれが全体をダラダラとした雰囲気にまでしている。
「ショーン・オブ・ザ・デッド」は笑えた。queenの「don't stop me now」に合わせてゾンビをしばくシーンで笑ったあとに人が惨たらしく死ぬのは最高だった。
どんな映画でもユーモアは必要だが、ギャング映画には本当に必要な要素だ。
「グッドフェローズ」でちびのトミーは笑うに笑えない人物で恐るべき緊張感を演出しつつも妙におかしいし、本当にこんな人いるなぁと思わせるリアリティもユーモアがもたらしていた。
「アンタッチャブル」でネスが仲間を集めるシークエンスはユーモアのある演出だが後半の命がけの戦いに身を投じる男たちのユーモアのない世界に対してのコントラストとして機能していたりと、ギャング映画のみならず男が命がけの仕事や戦いをする映画こそユーモアが必要なのだ。
戦争映画でも冗談を言った兵士が次の瞬間には頭を撃ち抜かれて死ぬなんて演出はよく見かけるし、なぜそんなことをするかというと、笑い合うといった生の輝きこそが死の悲惨さを際立たせることになるからだ。
だから登場人物と笑い合えない「LAギャングストーリー」は死んでいく男たちに最後まで共感することが出来ない。書き割りの人物が予想通りの順番で面白みもなく死んでいくだけになっている。

この2つの要素を欠いた「LAギャングストーリー」が男の魂をダイソンの掃除機のように吸引することは当然なく、まるで五十路の風俗嬢の尺八の如く緩やかな吸い込みなのだ。
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五十路の風俗嬢代表と言えばこの人ですよね~。お美しいですよね~。

しかし、ここからが本当に困ったことなのだが、だからといってこの映画が最低でつまらないクズ映画とは言えないところが危険なのだ。
テンポの良いストーリー展開と派手な銃撃戦があり、形式的にコマとして動いている俳優たちだがショーン・ペンとライアン・ゴズリングはやっぱりかっこいい見せ場をつくる。だから見ていて退屈はしない映画になっている。
知的障害者のおじさんを演じ失笑を買ったショーン・ペンとダッチワイフを彼女にしていたライアン・ゴズリングが女を取り合うようになるなんて世の中は不思議だ。
つまり見やすい映画なので「ちょっと映画でも見ようかな」と思う男子や、「ゴズリング様が出てる映画だから見るわ!」てな女子の要望には応える内容となっている。
これは困った。
一見して知能指数が底辺だとわかるマイケル・ベイの映画のようではなく、ちゃんとした映画になっている分たちが悪い。内容はマイケル・ベイ映画と変わらないような空虚なものなのに、これを良い映画だと勘違いする野郎が出てきてもおかしくない映画なのだ。これで勘違いすると今後の人生に大きく影響するよ。
なぜならこの映画は一生懸命作ったとは思えない作品で、そんな物に感動してるようじゃ上辺だけを見て判断する安い人間になってしまうってもんですよ!

一生懸命じゃなくてもなんとなくで仕事をこなす人っているじゃないですか?
とくに近頃の20代に多い気がするのは偏見だとしても、器用に無難にこなす人間が多くなってきてる気がするんですよ。こいつらの生き方は見ていて不愉快だけど、話してみれば悪い奴じゃないので本当に困る。
で、だいたいこいつらは親と仲がいいので実家暮らし、酒は飲めるけど酔うほどは飲まない、車は買わない、スマートフォンがあるのでPCも持たない、マンガといえば「ワンピース」、彼女・彼氏はいるが結婚する気はない。
のような奴ばっかで、嫌なやつじゃないけど全く面白くもない。
どこでそんな器用な生き方を学んできたのか知らんが、そんな人生の脇役に甘んじるような姿勢は気に食わない。
「これでいいんでしょ」って感じはこっちをバカにしてることに気づいてほしい。
ルーベン・フライシャーくん。君のことでもあるんだよ。
こんな生ぬるい映画ばかりとってそこそこの収益さえ上げればいいかと思っているなら、いますぐ逃げた方いい。
俺がゆるキャラの格好をしてお前のケツ穴に生ぬるいモノを突っ込みに行くからな!

とにかく「LAギャングストーリー」は男の汗や血や硝煙の臭いがまったく漂ってこないキレイな映画だ。
なぜ漂ってこないのか?
この映画には魂がないからだ。
悪党コーエンもある男とのボクシングでの決闘は断るくせに、最後は主人公とボクシングする。このことでもわかるように、コーエンにとってのボクシングが心の在りどころと演出するのではなく、ただのアクションの見せ場として添え物にしてしまっている。で、結局は殴り合いで負ける!
ライアン・ゴズリングは靴磨きの少年が銃撃戦に巻き込まれ命を落としたことをきっかけにギャングと戦うことを決意するが、ゴズリングにとって靴磨き少年がどのような存在かわかりにくく、女のために戦ってるようにしか見えなくなってくる。ゴズリングも元靴磨き少年で貧困から這い上がった人間のような描きかたをすれば、どのような目線で少年の死を捉えたのかがわかるというものだが、映画では数回話しただけの少年に思い入れがあったように見えない。
その他の部隊の仲間たちもバックボーンが極めて薄くどんな気持ちで悪と対峙する道を選んだのかがわからない。
それゆえに感情移入も出来ないし、死んでもなんとも思えない。
ちなみに少しでも映画というものを見ていれば、死ぬのは登場した瞬間にコイツとコイツだ!とわかるほどの人物造形になってます。
バカでもわかりそうなことを説明セリフで補足してくれるし、まるで日本のテレビ局が作った映画なみの丁寧さですよ。
同時期に上映している「バレット」の爪の垢を煎じて飲ませたい映画。
そうだ!
「バレット」をもう一度観よう!!
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ボボ
出た!デタンゲリヲンQ!
ついに!ついに見たぞ「エヴァンゲリヲン新劇場版Q」!

TV版を友達(このブログの絵を描いている人)に「このアニメ見るのら~」と薦められてから早18年。
「ロボットが人っぽい動きをしてかっこいい!」とすぐに心を奪われ、高校時代はエヴァのトレーディングカードを買い漁ることが唯一の放課後の楽しみでしたね。
「初版生産分しか認めない」とか意味不明なこだわりも今では良い思い出。
ま、そのせいで別の意味でカード破産状態だったわけですが、どうせカード買う以外にやることも無かったし。
とにかく、その当時から今まで同じアニメを見てるって凄くないっすか?え?

エヴァと言えば難解なストーリーや謎をちりばめたセリフ回しが実に香ばしく、それを香ばし仲間たちが集まり
「俺の解釈では死海文書に約束された生命の樹にまつわる…」とかをギトギトの顔して話合ったり、
家に帰って一人で「あやなみぃぃ~」と悶えながら自分のどこにも挿入できないエントリープラグを優しく、
ときには厳しく慰めてあげられるような色々な魅力が詰まったアニメ。
でも僕は頭がイマイチなせいか難解な話には興味がなく、さらに登場人物たちにもシンクロ率マイナスいってます!状態だったので純粋に、でかいアサルトライフル撃つ初号機ハァハァ(*^_^*)とロボットの動きに萌え萌えだった。そのせいかアニメ版が佳境に入るにつれエヴァのアクションが少なくなりどんどん冷めてしまった。
シンジ君が電車に乗って揺られていたり、禅問答をしている場面は本当につまらないなと思った。
で、最終話はよくわからん感じで終わり、「あ~知らん知らんもうわしゃ知らん!」このアニメはもうダメだと諦めて、集めたカードも今ではどこに行ったかわからないほど愛が無くなってしまったのだ。

月日は流れエヴァのことは忘れやっぱりガンダムが最高だよなと前向きに生きていたところ、
前出した友達がリュウ・ホセイの物真似をしながら「アムロ!エヴァの映画があるぞ!」とありがたいことに
教えてくれ、地元の映画館では上映していないのでわざわざ都会の映画館まで足を運ぶことになった。
今では映画は全席指定で立ち見をすることなんてほとんどなくなったが、昔は詰め込むだけつめこんで
インドの電車状態で映画を見ることは話題作にはままあった。
オタクとオタクのはさみ揚げではさんでいる具もオタクのような地獄映画鑑賞体験は「シト新生」と
「Air/まごころを、君に」以後は経験したことがない。
特に「Air/まごころを、君に」はオタクには辛い夏の上映だったので、そのスメルは正にセントラルドグマに到達するかの如く強烈な臭いだった。
劇場版の内容は関しては「シト新生」はほとんどアニメを再編集したものだったので何とも言い難い損した気持ちにさせられたが、「Air/まごころを、君に」は良いエヴァンゲリヲンを見たと充実した気持ちにさせてくれた。
ラストの有名なセリフ「気持ち悪い」が本当に気持ち悪かった身の上とすれば存分に納得せざるを得ず、
人間も社会も文化も気持ち悪かった90年代にはピッタリくる言葉だったと思う。

さらに月日は流れ、今度は違う友達からビートたけしの物真似で「エヴァンゲリヲンの新しい映画だよバカヤロー、あんちゃんも一緒に見に行くよな」と強制的に映画館に連行されたのがもう「序」だったのか「破」だったかは忘れた。
「序」は「シト新生」と同じように焼き直しを見せられ退屈だったし、使徒が表現豊かになっていて何を考えているかわからない不気味さが薄れていたのが嫌だった。
「破」はアクションも多く登場人物たちに人間味が増え、音楽も「太陽を盗んだ男」から引用されたりと楽しんで映画を作ってる感が伝わってくる内容だったが、エヴァ味が薄くシンプルなアニメ映画になっていたことが残念だった。
そして「Q」だ。

振り返ればエヴァ映画はオタク因果のせいで全て劇場で見ていたのだが、「Q」はレンタルが始まっていたことも知らないほど興味がなく、ツタヤで見かけたのでそういえば見てないなと借りたしだい。
ディスクを放り込んで始まった映画に度肝抜かれた。
なんとジオラマ撮影で実写ではないか!これは凄い!綾波レイのナレーションが入り、うわ今回のエヴァやばい!斬新だ!マジ裏かかれた!東京にエヴァの中身みたいなのがやってきて、口から怪光線を放ち街をぶっ壊す。なにコレ!面白い!アニメをやめたのは大正解だよ!庵野は昔から特撮好きだからな~今回のエヴァは面白くなるぞ!
とオープニングから大興奮していたら、クレジットが流れ出し次にアニメが始まったので今回どんだけ新しいことやってんだよ!とターちゃんのジェーンばりにつっこみを入れてたら、なんか最初の特撮映画はオマケみたいなものだと徐々に判明。恥ずかしいよ。なんで気付かなかったのかな「巨神兵東京に現る」という別の映画だったみたい。顔を真っ赤にして喜んでた自分が恥ずかしいよ。

勘違いから傑作を予感させた「Q」だけど、これはこれでなかなか久しぶりにエヴァンゲリヲンらしい映画で良かった。
ネタバレってやつをするけど、別にいいよね。
なんか前作からいきなり14年後の世界になっていて、アスカは眼帯してるしミサトさんは変なサングラス付けて
帽子かぶっているしリツコさんはナスビみたいな顔になっているしと怒涛の展開。
真っ赤な海の世界でシンジ君が復活するわけですが、さすがに全く状況が飲み込めず「わけわかんないよ!」と喚くのみ。さらにバカとかガキとかエヴァに乗るなとか乗れとかオマエいらないとか言いたい放題言われて茫然。
首には「バトルランナー」で囚人管理用に使われていた爆弾つき首輪を巻かれるし超バッド。
バトルランナー
初めから終わりまでいい。出てくる人間も全員合格の映画。


助けたはずの綾波は初期ロットのプロトタイプになっていて、無愛想な感じに先祖帰りしているし最悪。
友達はゲイ感がすごいカヲル君だけだし、やることはピアノの連弾だけ。
食べ物はカラフルなベチャベチャの物体だし、ゲンドウ父さんはまるで「新スタートレック」のフォージみたいなサングラスしてるしもう理解不能。
スタトレ
こいつ凄く良い人

ミサトさんはネルフと敵対する組織を作っているしともう気の休まる場所はシンジ君には残されていない。
というかこんな世界にしたのもシンジ君のせいとガッカリ事実も明かされる。
冬月に将棋に誘われ飛車、角、金落としでもボロ負けとシンジ君はいい所なし。
綾波に「あんとき助けたやんな?」と聞いても「知らない」と言われる始末。
もうクラクラとノイローゼ。その心情を画面がぐらんぐらんに揺れる古典な表現を使い実にわかりやすい。
「もうあかん。なんもやるきせんわ」と部屋にこもるシンジ君にカオル君が声をかける。
「エバでこんな世界になったんやし、エバで戻せばええば」とシンプルな提案がシンジ君の胸に突き刺さる。
首輪もカヲル君が代わりにつけてくれたし、もうシンジ君はメロメロ。
シンジ、カヲルと呼び合う仲に。
世界を戻すために二人乗りのエヴァ13号に乗り込むシンジ君とカヲル君。
二本のエントリープラグが差し込まれる場面は実にホモちっく。
みんなのために世界を戻そうと努力するシンジ君。そのためには二本の槍が必要なのです。
大きな変な塊に二本の槍が刺さっているのでそれを抜こうとテンションが上がりまくるシンジ君に対し、
隣に乗っているカヲル君の様子はブツブツと意味不明なことを呟き表情が曇りっぱなし。
「おかしいやん、なんかあの槍ちゃうんちゃう?やめよ、嫌な感じやわ帰ろ」と土壇場でおかしな感じになる。
槍を抜こうとする13号機を阻止しようとアスカとメガネが襲いかかる。
アスカが乗る2号機はドクターマシリトみたいになっている。かっこいい。
マシリと
ほんとこんな感じ

一生懸命に戦うシンジ君の横でカヲル君は「おかしいやん、おかしいやん」と言うだけで、
全然手伝わないのがおもしろい。
結果、槍を抜くわけですがカヲル君もアスカも「やめとき、やめときって」と言うのに抜くから大変なことになる。
なんとフォースインパクトが起きそうな感じになるのです。
槍を抜いてヤヌスみたいになった13号機にミサトさんが艦長を務める戦艦ブッダーが突っ込む。
本当にブッダーって名前なんだ。本当だ。
アスカと綾波は殺し合うし、カヲル君は爆死するしと嫌なことだらけ。
そのあとのセリフでメガネっ子が何度聞き直しても「まんこ君がゼーレの保険か」って言ってる。
ほとんどがゼーレのシナリオ通りに進んでいるらしく、でも今はこれでいいとゲンドウさんもミサトさんも言ってるので今はこれでいいみたい。
シンジ君はあまりのショックでまるで90年代シンジ君に逆行してエントリープラグ内で亀状態。
それをアスカが無理やり引っ張り出し、綾波を加えて赤い荒野を三人が歩いていく場面で今回は終幕。
次回は三人の心のふれあいと成長を描くロードムービーになるのかなと期待させる。

内容はほとんどこんな感じなので、見ていない人はこれを読んで興味があれば見ればいいよ。
個人的には今回の「Q」は面白かったし、次もこの調子で頑張ってほしい。
突然わけのわからない世界に放り込まれて翻弄されるシンジ君と同じ目線で「Q」の世界が体感できる
ライド型映画と思ってみれば、映画演出として真っ当だし今回は大正解だと思う。
意味がわからないと批判するのは的外れもいいところ。
意味がわからないのは「Q」で始まったことじゃないし、アニメに意味を求めたりするのはダサい。
主人公がとことんダメな奴で輝く瞬間が全くないまま、世界を破滅に導く映画なんて最高じゃないか。
「破」で少し過剰にあったエロい演出も今回は綾波の背中のみといった感じで、萌えバカどもに媚びていない感じも好感が持てたし、なによりロボットが戦う場面が多くてよかった。
ダラダラとした日常シーンが大嫌い派としては、終わった世界から始まる「Q」は退屈せず見ることが出来る今どき貴重なアニメのような気もした。次作で終わるのか続くのかは不明だが、どんどん続いて「デューン/砂の惑星」みたいな話になればいいのにと夢見てる。
最後に、今までエヴァンゲリヲンを見たことが無い人はこの「Q」から見てもいいんじゃないかな。
きっと何かわからないけど面白と感じることが出来ると思う。
子供の頃、なんの予備知識もなく「アニメだいすき!」を見て出会ったアニメを見ている感覚に近い映画だから。

エヴァ







ロアルド・ダール「あなたに似た人」
おもしろい人間が二面性を持つように、おもしろい作家と言うのも二面性を持つものだ。
というのは誰が言ったかはしらないが、そう誰かから聞いたことがある。
そうかな?と疑問に思ったならば、ここはひとつあなたがおもしろいと思う人を思い浮かべてみるといいかもしれない。
きっとその人はよくわからない所があるひとなのではないだろうか。

ダールは児童文学とダークでアダルトな奇妙な短編集を得意とする作家でありんす。
意外にもというか、当然というか僕の中では児童文学、この際は寓話とダークでアダルトというのは密接などという言葉では足りないくらい、むしろ同義でいいんじゃないという面をもちあわせたジャンルだとおもっちょります。
グリムであったりイソップであったりと寓意に満ち満ちた作品というのは大人が楽しめるものでありますし。
かの有名な赤ずきんももとの口承ではえらいエロいはグロいはで大変だったと、更には童話を下敷きにした現代の物語、作品もやはりどこか物憂げで暗く、寂しいものが多いと思います。
ですがやはり一般的に子供が楽しめるものと大人が嗜むものは分けるべきではあるので、そこは設定をちょちょいと変えて料理するのが世の習わし。
なので表面上はやはり背反するジャンルを描く作家がそこかしこに存在するというわけだったりするんだろうなと思う次第です。
そしてダールもそれに漏れない作家であって、しかもチャーリーとチョコレート工場の原作者だったりします。
二三年前にはファンタスティックMrFOXという名前のアニメがやっていましたがこれもダールの児童文学が原作だったりします。
意外と知らず知らずにダールに触れているのです。
驚き。
そしてそのダールの珠玉の短編集が「あなたに似た人」
そもそもこの表題はNHKの大人気番組「お母さんといっしょ」の中のショートアニメ「こんなこいるかな」の大人版であることを多少なりとも意識せざるを得ませんが、しかしこれはまったく「こんなこいるかな」的なものではなく、こんな人は絶対にいてほしくないし、いるにはいるだろうけどお近づきにはなりたくないというのが正直な所だと思います。
そもそもこの短編集ハヤカワから出てる時点でおもしろくない筈がないと思うんです。

妙ちきりんな出版社ビイキなわけですがハヤカワが一番好きです。
何故ならペーパーバックがかっこいいから。
でもペンギンブックスのデザインが一番良い。

さて、そんなダールの短編集あなたに似た人収録でもっとも有名であり、かつ出来の良い一編
南から来た男がやはりせちがれも一番すきでございます。
カイジのあの名勝負もきっとこの作品にインスパイアされたのだろうと勝手にそう思ってます。
実際にあんな奇怪な老人に、あんな賭けを持ちかけれてもせちがれはのったりはしませんが
それでも一瞬考えてしまう程の報酬で、なにかの嘘か冗談かと、笑って許してくれるのではないかと、
そんな思いも一瞬で吹き飛ぶようなオチ。
やー見事の一言。そこまで想起させられたらほんとまいっちゃう。
文字だけで現された奇怪な人物の奇特な行動は想像力を否が応でも掻き立てられて不気味さ倍増。
視覚的、聴覚的に頼らずにここまで演出できるのはなかなかお目にかかれないと、そう思います。
日本人でもかの有名なロリコン宮崎駿もダールのファンであるらしいので、未読の方は是非是非一読あればよろしかろ。
劇場鑑賞レポ「アイアンマン3」
アメコミヒーロー映画といえば、皆さんは何を思い浮かべるだろうか。70年代であれば、ジョン・ウィリアムスの勇ましい音楽をバックに拳を突き上げる「スーパーマン」。80年代であればプリンスのテーマソングと共に夜霧の立ち込める湿った暗い街の中を異形の車で疾走する「バットマン」。90年代に入るとCGの発達によりアメコミという題材に技術が追いつき、表現の幅はグッと広がる。角刈りサングラスの黒人が吸血鬼どもをバッタバッタと斬り捨てる「ブレイド」、悪魔との取引で地獄から舞い戻るダークヒーロー「スポーン」など多種多様だ。
ちなみに私の90年代アメコミ映画といえば「ミュータント・ニンジャ・タートルズ」だ。タートルズはアニメも放映され、当時の小学生全員に人気があった!というわけではないが、少なくとも私と友達数人は熱狂的にタートルズを信仰していた。用もないのに祖母の家へ足しげく通い、少額ずつもらう小遣いをためてミケランジェロ(オレンジ帯のタートルズ。ヌンチャク使いで食いしん坊。タートルズといえばピザっていうのはそもそもコイツのイメージ)のアクションフィギュアを買ったのを今でも覚えている。まあ、この作品はCGの発達により云々といったアメコミ映画の系譜とは全く違うところに位置にしているが、90年代はこうした子ども向けの作品から、完全に大人向けのダークな世界観のものまで、内容云々はともかく振り幅が広く、多くの作品が作られた時期。この極端でカオスな時期を経たからこそ、子どもから大人も楽しめる2000年代以降のアメコミ映画へとつながったのだと思う。
00年代からは記憶も新しく「X-MEN」「ファンタステッィック・フォー」「スパイダーマン」クリストファー・ノーラン版「バットマン」など、今アメコミ映画といって、このあたりを思い浮かべる人も多いのではないだろうか。
この中でも最もエポックメイキングであり、最も大きな功罪を抱えているのが「スパイダーマン」だと私は思っている。それまで、スパイダーマンといえば、バイク乗りで、鉄十字軍と戦うためにモジモジくんのような格好をしてビルを這い上がる日本人であり、お世辞にも格好良いとは言い難かったのに、いつしかスパイダーマンはそんな私の昭和的記憶の隙間を高速ですり抜け、世界で一番格好良いアメコミヒーローとなってしまった。って、それが本来の姿か。
スパイダーマンが画期的だったのは、ライド感溢れる映像表現だけでなく、ヒーローとしての苦悩を等身大で描いた点にあり、それまでの単純明快な勧善懲悪ものから新たな切り口を提示したという部分では、大きく評価されてしかるべきだが、この「ヒーローの苦悩」こそが、後のアメコミ映画に影響を与えすぎてしまっているのは大きな問題だ。
その影響とアンチテーゼを両方合わせ持った困ったシリーズがクリストファー・ノーラン版バットマン、いわゆる「ダークナイト」シリーズなわけだが、その件についてまで私のつたない駄文で語っても仕方がないので、やめておく。
とにかく、スパイダーマン以降のアメコミ映画は「ヒーローとしての苦悩」「アイデンティティーの崩壊」という、湿っぽく暗い話になりがちで、それ自体が嫌いとかアメコミのテーマに沿っていないとは勿論言わないが、スパイダーマンとダークナイトでひとつの到達点をみたのだから、それ以降同じような切り口のものを見せられても正直食傷気味だ。だったら、私は「POW!」というカラッと爽快感ある映画を観たいと思うし、アイアンマンがここまで人々に受け入れられ、スパイダーマン不在のアベンジャーズにおいて実質的センターの座を射止めることができたのも、そうしたアメコミヒーローとしての現状最も正しいあり方をトニー・スタークというキャラクターで見事に表現して見せたからではないか。そういう意味では、今年公開のザック・スナイダー版スーパーマン「マン・オブ・スティール」もアイデンティティやリアリズムの病理に蝕まれているのではないかと大いに心配している。
そうした不安が、今回の「アイアンマン3」にもあった。予告編はどうにもダークナイトを意識した感じだし、「アベンジャーズ以降PTSDに悩まされるアイアンマンことトニー・スターク社長は、、」みたいな筋にもかなり懐疑的だった。そのせいで、私は普段なら観たい映画は公開週に馳せ参じるのだが、今回は3週遅れでやっと劇場に足を運んだ。
結果から言う。これが私の観たかったアイアンマンだ。あえてディテールについては触れないが、心配していたアイデンティティの崩壊問題も、確かに物語のテーマではあるが、湿っぽくなりすぎず、トニ・スタークというキャラクターのバランスをきちんとおさえながら、クライマックスの伏線としてもしっかり機能させている。
「アイアンマン、そしてトニー・スタークとは何なのか?」というアイデンティティへの問いが、140分間の旅を経て、ひとつの答えに辿り着き、それが観客(少なくとも私)の観たいものと合致し、ワクワクさせてくれる。決して「隙のない完璧な映画」というような映画ではないが、こんなに幸福な映画体験は中々ない。
リブートや、メタ志向に走りがちな2010年代のアメコミヒーロー映画の潮流において、アイアンマンは3作目にして一本筋の通った現在進行形の王道アメコミヒーロー映画の確固たる位置を築いた。
この幸福な旅を是非、劇場で味わって頂きたい。