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「21ジャンプストリート」の巻 前編
「21ジャンプストリート」は傑作だ。
ジョニー・デップの出世作であるドラマのリメイクだが、主役がジョナ・ヒルと
チャニング・テイタムなので当然アイドル映画ではない。
以前に比べれば格段に痩せたとはいえチビデブなヒルと、
男前だが頭の悪そうな表情が良い味のテイタムの二人がその魅力を
画面中にたぎらせた素晴らしいコメディ映画。

振り返ればこのジョナ・ヒルという男をかなり侮っていた部分があり、
実に恥ずかしいばかり。
アパトーギャング映画によく出てくるおもしろデブとしか認識しておらず、
ジョン・ベルーシ、ジャック・ブラックなどに続くおもしろデブの系譜ね、ワロス。と、
完全に舐めきっている時期が確かにあった。
芸風はジョンとジャックに比べかなり文系だけど。
「ハッカビーズ」にチョイ役で出ているときも
「ダスティ・ホフマンのコネコネ野郎め!」と思っていた。
「無ケーカクの命中男/ノックトアップ」でも主人公のセス・ローゲンを囲む
大人になりきれない男たちのなかで浮くほどひときわ若く顔はまるで赤ちゃんのヒルが、
思いがけない妊娠に揺れる主人公に対して何を言おうとも
「お前はまだ子供だろが!」と勝手に憤慨していたものだ。
そんなヒルの印象を変えるきっかけとなった映画はやっぱり「スーパーバッド 童貞ウォーズ」

「スーパーバッド 童貞ウォーズ」で童貞デブ高校生を演じているヒルは当時23歳か24歳くらいだが、
全く違和感はない。
ヒルの持ち味である超ベビーフェイスの正しい利用法で、
これは「21ジャンプストリート」にも存分に活かされている要素。
残念ながら「スーパーバッド」ではマイケル・セラの草食力と
シンデレラボーイであるクリストファー・ミンツ=プラッセ(マクラビンYeahhh!)に
ヒルは食われがちだが、アパトーギャングの兄貴分でもありこの映画の脚本を書いた
セス・ローゲンの分身であるセス役をヒルは見事に演じきっていた。
メイキングでヒルは冗談でマクラビンのことを
「あいつ嫌いだ」みたいなことを言っていたのが印象的だった。
やはり素材としてのポテンシャルの高さではマクラビンのような人間には勝てないと感じ取ったのだろう。
その後、ヒルは「僕の大切な人と、そのクソガキ」で複雑なマザコン青年を演じ
「マネーボール」ではブラット・ピットの相棒を演じてアカデミー助演賞にノミネートされるほど
演技派な部分も見せ始める。
このままドラマ路線に転向するかと思いきやさにあらず、
やはりヒルはコメディ映画にすぐ帰ってくる。
自らが製作総指揮と単独主演を務めるコメディ映画「ピンチシッター」を送り出すのだ。
この作品はヒルのクリエイターとしての才覚の片鱗を見せてはいたのだが、
この映画は子供と絡むことが多いせいか表現の規制もあり突き抜けた笑いが少ない。
腹の底からは笑えない消化不良感が残る少し残念な映画となっていた。
しかし「ピンチシッター」は映画を作る感覚を掴むにはちょうど良い作品だったようで、
次作「21ジャンプストリート」では製作と脚本にも乗り出すことになる。
そもそも脚本家志望だったヒルにとっては遂に念願かなったりといった状況だったろう。

ジョナ
アパトーギャングの人たち(手前がジョナ・ヒル)

前半だけでもまだまだつづく…







クローネンバーグ版「コズモポリス」は町工場の隅に積もる鉄埃か?
金がない。
衣食住には困っていないが、決定的に足りていない。
具体的にいえば、車や家を買う金が無いのだ。
なにも部屋数が多くトイレや風呂が2つある家を求めているわけではない、
慎ましく自分と妻と将来的に子供の3人が暮らせるような場所が欲しい。
車も燃費が良くて走ればなんでもいい。ただ軽自動車は体型的にしんどいから無理だ。

もし一生、一人で生きていく覚悟さえあれば年収なんて200万あれば十分。お釣りが出るくらいだ。
自分が本当に欲しいものなんてたかが知れてる。本と映画のブルーレイディスクと酒くらい。
食事はピザかマクドナルドがいい。
あまった金で中古のバイクを買えれば満足。
ゲームもたまにはいいかもしれない。友人と楽しめるゲームなら尚のこといい。
出世なんて関係ないから定時に退社し、安いレンタルビデオ屋で映画を借りて帰る。
発泡酒でも飲みながら借りてきた映画を見て、つまらなければそのまま眠る。
そんな人生も選べたはずだ。

しかし、無理だった。
常にセックスしたいし、「ロッキー ザ・ファイナル」のスタローンのように
我が子に「お前は世界一の人間になる!」と言ってあげたくなったのだ。
家も車も買えないような人間には贅沢な望みだったのだろうか。
好きでもない仕事だけど自分なりに一生懸命こなしているつもりだし、
人に迷惑をかけないように気をつけて生きてきた結果、金が無い。
これが20代ならまだ仕方ないと思えるかもしれないが、もう今年で33歳だ。
35年ローンを組めれば68歳で完済。それでも買えるような家やマンションは無いのだ。
実家で親と同居は論外。親も妻も反対している。
どうすればいいのか?方法はわからない。
ただ金さえあればと、もはや形而上の答えがグルグル回るのみ。

そもそも金に関して大きな勘違をしていた。
中学・高校と周りを見渡せば自分よりも貧乏に見える奴が多く、
「あ、俺の方が上だ」と勝手に中産階級気取りになっていた。
これが大きな間違い。いわゆるドングリの背比べ。
貧乏人同士が比べ合う、乞食合戦に勝った気でいたのだった。

そんなことばかり考えているせいか、最近は映画を観ていてもイマイチ楽しめない。
「キャビン」のような金持ちが出てこない映画はいいが、少しでも金持ちが出てくる映画だと
「それに比べ俺は…」と妻と子供に懺悔したい気分に襲われ、映画みてる場合じゃないだろ!
と焦って見るのを止めてしまう病気になってしまった。
そんな状態でもクローネンバーグ先生の映画が公開されるとなれば行かないわけにもいかず、
「コズモポリス」を観てきたわけである。

何度読んでも意味がわからないドン・デリーロの「コズモポリス」の映画化。
「映画化不可能!!」というキャッチコピーはCG技術の進化により、もはや陳腐な表現に落ちたけど、
「コズモポリス」を読んだ人なら本当にそう思ったはずだ。別の意味で。
とにかく観念的な会話が延々と続き、何を考えているのか理解しがたい登場人物の動きを追う形で
進む小説は、非没入感満載で正直言って読んでいてイライラした。
こんなものを映画にして面白いのか?という疑問が当然のようにあったが、
クローネンバーグ先生が監督なら何かあるのかもしれない。と、騙されたふりをして観た。
前作の「危険なメソッド」を観てわかっていたはずだけど、「コズモポリス」を観て再確認した。
もうバーグ先生は頭が爆発するような映画は撮らないのだと。

ロバート・パティンソン演じる若くして大富豪になったワンダーボーイが、最新技術を詰め込んだリムジン
の中で観念的な会話をしつつ破滅に向かう内容は原作とほぼ同じ。
違うのは原作では暴落するのが円だったが、映画は元。世相を反映している。
全てに飽きているような主人公が破滅に向かう道程をみっちりねっちょり描いているのが、
バーグ先生らしいといえばらしいが、面白いわけではない。
全てを手に入れ尚全てを求めるパティンソン君の演技は掴みどころのないルックスと相まって、
なかなか良い感じ仕上がっている。
投機会社を経営していると思われる若きウォール街の勝者である主人公は何もかもに飽きている。
その生の実感に乏しい佇まいが魅力的でもある。
主人公がやたらとセックスするのは身体的な感覚を通して自分が存在していることを確認したいからだろう。

「ホステル2」で金持ちたちが人を殺してオーラを身に纏いたいという理由で、拷問殺人に興じていたが
「コズモポリス」のこの主人公はそれさえもとっくに飽きていると思わせる怖さがある。
パイをぶつけられた後、運転手を射殺する主人公には躊躇も興奮もなにも無い。
いつもの退屈な表情を見せるだけで、新しい運転手が次の場面には登場するのだ。
唯一主人公が笑顔を見せるのは銃弾が横切り自分の命が狙われているのだと実感した時だけ。
嬉々とした表情で自分を狙うポール・ジオマッティのいるビルへ向かうシーンがこの映画で一番清々しい。
そしてまたブランケット症候群のジオマッティとよくわからない会話を繰り広げ、決定的な破滅を向かえる。

エアガンを買ったら自分を撃って痛みを感じてみたいと思ったことありませんか?
僕はあります。実際に撃ったこともあります。
痛かったです。けっこう腫れました。
罰ゲームで悲惨なめ合っている人を少し羨ましいと思ったことはないでしょうか?
僕はあります。どんな痛みなのだろうか、味わってみたいなと。
「ジャッカス」なんて羨ましい限りですからね。
こう書くと、M男だ!キモい!と勘違いされそうなので、弁明しますが
ちゃんと顔射が好きですし、露出物など女性を辱めるものも好みですよ。
ただ、未知な体験に憧れを抱いているだけで身体の痛みは新しい体験として手っ取り早いわけです。

パティンソン君も自分の手を銃で撃ち抜ぬくが、前後の文脈と繋がりは感じられない。
そうしてみたかっただけ。そんな感じがするシーンだ。
そしてハワード・シュアの死の門を叩くような見事な音楽が徐々に大きくなり、観客の緊張を
最後の最後で高めつつエンドクレジットに突入する。
誰もが思うはずだ「頭撃ち抜いて脳髄ぶちまけるところみせろよ!バカヤロー!」と。
「ヒストリー・オブ・バイオレンス」を撮った後バーグ先生は
「暴力の結果を見せなければ娯楽になる。それは暴力ではない」みたいなこと言ってたのにな~。
もうおじいちゃんだからなのかな~。

この映画の一番の見所は、大きな目を模したカラスよけの如き禍々しい乳輪女性を拝むことが出来るシーン。
乳輪の大きな黒い円がどこか空っぽなこの映画の空虚な穴の部分をよく表しているようで、
不穏な空気によく似合ったグッド乳輪だった。
巨万の富を手にした主人公の孤独や厭世感に共感できるようなホリエモン感覚の持ち主が
世界には少なかったことがこの映画がヒットしなかった要因の一つだが、
目的の無い金儲けは寂しいなと経済的負け犬の立場から思える、幸せとはなにか?を
問う不変的な内容の映画だとも言える。

資本主義や神話やセックスやら意味深なセリフが洪水のように垂れ流され、破滅に向かう男を描くこの映画。
まるでアメリカンニューシネマを90年代のノリで撮ったかのようなクローネンバーグでなければ途中で
唾を吐いて劇場を立ち去るような映画。
しかし、金のことばかり考えている今の自分にはグッときた。
大借金を背負い込もうが、六畳一間で暮らそうが結局は同じこと。
肉体があるかぎり破滅へ向かう意思はさけられないからだ。
そう思うと心が軽くなりました。なんてのは大嘘だが、妻や子供のためなんて綺麗ごとではなく、
現状で自分がどう暮らしていきたいのかを考えるきっかけにはなった。


クローネンバーグ先生の次の映画は「Maps to the Stars」
ヴィゴ・モーテンセンが復活し、パティンソン君とレイチェル・ワイズも出るらしい。
ハリウッドの暗部を描く内容になるようだが…つまんなさそうだ…。
でも日本で公開するなら絶対に観に行くだろう。
単純に面白いかつまらないかではなく「危険なメソッド」と「コズモポリス」で、さらに能動的に何かを
探す必要を迫ってきたクローネンバーグ映画だからこそお金を使う価値があると思う。

コズモポリス













「ジャンゴ 繋がれざる者」
リミュエール兄弟が撮影した世界初の実写映画である「工場の出口」の公開から120年。
成り立ちから映画は商売として発生し、その誕生の瞬間から映画はある意味においては芸術性の到達点に
達しており、それは「映画に未来はない」と語ったリミュエール兄弟の言葉からもわかる。

過去の映画と現在の映画の違いは技術的な差異であり、本質的な部分では変わることがない。
これは商売を基とする創作作品においてほぼ同じことが言えるだろう。
1800年の小説より2013年の小説の方が優れている論拠がどこにあろうか。
文章で創作をするという時代を問わず行え、
原始的と言っても差し支えない行為に進歩性があるとすれば、
それは石に刻んでいたものが羊皮紙とインクに変わり、
原稿用紙と万年筆を経てワープロに取って代わられただけではないだろうか。
近代において人の脳が劇的に進化しているなどとは聞いたことがない以上は、
芸術・創作は製作過程のツールが進化しているだけで、
結局は延々と別パターンの「工場の出口」を模索しているようなものかもしれない。

映画を映画たらんとしているのは、1ショットの連続それがシークエンスを成す様子である。
それで人を集めて金を取り、上映すれば立派な映画の誕生と言える。
これが原初から商売として成立する「映画」だとすれば、
上記でも出した「ある意味においては」芸術性の到達点に達したとはどういう意味か。
映画は商売である以上は観客の要望に答えなければ生き残っていけない。
より刺激的で斬新な作品を求める時代の息吹に呼応したかのような映画が
ジャン・リュック・ゴダールの「勝手にしやがれ」である。
「工場の出口」から約60年、同じフランスの地から映画の脱構築が始まり
「ある意味において」到達していた映画の芸術性に、観客を置き去りにするかの如く凶暴性を
露骨な形で加味していくのだった。
これで映画の芸術性はその多様性を含め、この時点で完成の域に足を踏み入れている。

ハリウッドで依然、絵空事で幼稚な映画を撮り続けていた同時期、
フランスではヌーベルヴァーグのまさに新しい波が映画を作り変えていたのである。
ハリウッドがこのままでは生き残っていけないことに気づくのは、
ボニー&クライドが銃声と共に蘇り、
1969年にデニス・ホッパーとピーター・フォンダが仕掛けた「イージー・ライダー」が
陰惨なベトナム戦争とそのカウンターカルチャーが見せる幻想の自由を、
ハーレーの轟音を新しい時代の産声の代わりに響かせてみせたからだ。
アメリカン・ニューシネマの到来でハリウッドは無理やり大人になった。

作家性と商売が奇跡的に結びついた70年代で幸せな時を過ごしたハリウッド映画は、
80年代に入ると脳死してしまう。筋肉で考える時代が始まったのだ。
1976年に「ロッキー」がリングに上がることが勝利だと、立ち上がることに意味があるのだと
アメリカン・ニューシネマに対して答えを出してしまって以降、
立ちあがっリぱなしの筋肉は90年代になるまでステロイドを打ち続ける羽目になる。
娯楽として映画が最も充実していた80年代は移動式遊園地のように一過性の哀しい光を放ち、
二度と本当の「インディ・ジョーンズ」が復活しないことを予見していた。

そして90年代。ついにタランティーノの登場である。
オタクとして熱心な映画愛好家であったタランティーノは
好きな映画を組み合わせて映画を作ることに最も成功した人物だろう。
タランティーノの凄いところは、過去の映画の完成度に自覚的にであり
自分の作品に拝借する場合でも、そのまま使用するところではないだろうか。
それでいてタランティーノの映画はタランティーノ映画でしかないところが、やはり凄い。
童貞の頃に脚本を書いた「トゥルー・ロマンス」から最新作「ジャンゴ 繋がれざる者」まで
映画に対しては子供のような純粋さを感じさせる一方、
その風貌と「しゃべりタランティーノ」体質のせいで
ふざけているようにしか見えないところも彼の魅力の一つだろう。
お喋り自体もタランティーノ映画には重要な要素で、
「ジャンゴ 繋がれざる者」でも話の上手さで主導権を握る場面が出てくる。

しかし、この「ジャンゴ 繋がれざる者」がなかなか厄介な映画で、
前作「イングロリアス・バスターズ」で味をしめた、
「タランティーノ自身とは全く関係はないが歴史の溜飲を俺が下げてやるぜ!」方式の第2弾である。
上映時間も165分とタラ映画史上もっとも長く、正直言って単調に感じる場面も少なく無い。
マカロニ・ウェスタンに精通した人と、黒人なら165分でも短いと感じるかもしれないが、
一般的な黄色人種にはかなり長い。
前作でのヒトラーをぶっ殺すといったスケールのでかい嘘ではなく、奴隷商人をぶっ殺すといった
局地的な復讐劇であることが功を奏した箇所と、逆に「早くぶっ殺せよ!」とスクリーンに向かって
叫んでしまいそうな箇所が交互にきて、緊張と緩和も過ぎれば退屈といった趣である。
ただ、面白くなかったとは言い難く、退屈とイライラもラストの殺戮でのカタルシスのためだとすれば
納得いかないこともないし、そもそもタランティーノの映画ってこんな感じだったな思い出させてくれる
映画であることは間違いない。

タラ映画の中でもマカロニ・ウェスタンと黒人奴隷の歴史といったハードルの低くないリテラシーを要求する、
「ジャンゴ 繋がれざる者」がタランティーノ史上最大のヒット作となった要因は
黒人奴隷とマカロニ・ウェスタンを組み合わせる見世物的効果を最大限に発揮した結果であり、
タランティーノ以外の監督が撮れば怒られるような物を娯楽作品として提供したからだろう。
映画史に照らし合わせれば至極まっとうな方法論で、リミュエール兄弟から続く見世物として正しい
映画なのである。
面白い面白くないは別として、タランティーノの映画を観る事は「映画史」を観ることに通じ、
映画の成立から脱構築、娯楽とカルト化といった様々な変遷を辿ることが出来るのだ。
「ジャンゴ 繋がれざる者」でタランティーノが爆死するシーンにCGは使われていない。
タランティーノがCGを嫌っているからだ。
おそらく彼が敬愛する映画たちにCGのように嘘の上塗りをする技術は存在しないからだろう。

「パルプ・フィクション」でジミー役のタランティーノが
「俺の家の前に“ニガーの死体預かります”と看板が立ってたか?」
「なぜなかったかわかるか?」
「うちはニガーの死体を預からねえからだ!」
と黒人の死体を運んできたトラボルタとソミュエル・L・ジャクソンに叫ぶ。
そんなタラが黒人奴隷の死体を背負って撮った「ジャンゴ 繋がれざる者」は
タランティーノが大人になってしまった部分と、いつまでも変わらない無邪気なオタクの部分が
混じりあった彼の過渡期の映画とも観てとれる。
だからこそタランティーノは次作の「キルビル3」で新しいタランティーノを見せてくれるはずだと、
どうしようもなく期待してしまう。

その生誕の瞬間から崩壊前夜に自分を位置づけていた映画は、たえず崩壊前夜を生きているという
自覚の深まりとしてみずからの歴史を刻む。(蓮實重彦「映画崩壊前夜」序文)
リミュエール兄弟の言葉通り、映画は進化することはないが時代を反映しその存在を維持し続けている。
たとえ崩壊したとしてもタランティーノがいるから大丈夫だ。
きっと上手に組み合わせて楽しい映画を撮ってくれるはずだから。
「ジャンゴ 繋がれざる者」は最高!と喝采を送るタイプの映画ではないが、
観ておかなければならない映画であることは確かである。
あと、ニガーなんて言葉は使っちゃダメだ。

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「ゴーストライダー2」
その評判は方々から耳に入ってきていて、やれ群像劇の傑作とか新しい青春映画のマスターピースなど
期待を煽るワードたちに胸を躍らせてはいたが、タイミングが合わず映画館で観ることは出来なかった。
この度レンタルが始まり、遂にその映画を観ることが出来た。
そのタイトルは
「桐島、部活やめるってよ」
頭脳明晰、運動神経抜群、たぶん顔もイケてる
高校のスーパースター桐島くんが部活を突然やめたことで起こる、
桐島くん周辺の人々の「本人たちにとっては一大事」を桐島くん不在の状態で描く映画。
色んなところでこの映画について書かれているし、町山智浩さんも言っていた通り
「桐島~」は実存主義の映画で高校を舞台にした「ゴドーを待ちながら」なわけですが、
このページでこの文章を読むような自分を含めた
中卒頭脳には難しい解釈。そんなのつまんない!つまんない!

僕はこの映画を観て思いましたよ。
死ぬほど羨ましいと同時に全員に腹が立つし、なんて面倒な映画なのだと。
現代の日本ではほぼ全ての人が学校に通い、
そこで色々な経験をしているはずだということを前提にしますが、
この映画では分かり易く色んなグループを出して共感を誘ってくるわけですよ。
イケてる女子グループとか体育会系、文化系女子やオタク男子などなどね。
でも全く共感と感情移入出来る人物はおらず、ほんとバカヤローです。この映画。
部活もやってないし、好きなことにも取り組んでないし、馬鹿にされてもいないし、
彼女もいないし、男前じゃないけどキモい!わけでもないし、友達は2人いるけど別のクラスだし、
クラスには話し相手すらいないし、運動も勉強も普通、
放課後は家に帰って既にクリアしたゲームのレベル上げをしているような有り様。
登場人物たちの放つ光によって、まざまざと浮かび上がる意味の無かった自分の高校生活の暗い影!!
観終わったら嫌な気持ちしか残らない。
悔し泣きしました。柔道の篠原も誤審で銀メダルになったときこんな気持ちだったのではないでしょうか。
悔しい!羨ましい!金メダルとってる奴が妬ましい!男前を殺したい!
なんで俺はこんなゴリラみたいな顔なんだ!ってね。
しかし篠原さん、あんた銀メダルとってんじゃん。立派だよ。
それに引き換え俺は…高校時代から今まで負けてすらいない。勝負してないから。
「桐島~」に出てくる高校生はみんな何かと戦っている。
それは大人から見れば陳腐な問題だけど、恋や友達関係、部活や将来、
そして好きなことに一所懸命であり続けることに向き合っている。
そんな姿を見て羨ましいと思ってしまう時点で、
いかに悩んだり葛藤をしない平坦で退屈な人生を選んできたかがよくわかる。
というか、わかってはいたけどわざわざ思い出したくもないようなことを引っ張り出されるのだ。
これは何かするべきだったのに、ニヤニヤと「俺には関係ないし」と
好きなことでさえ嘲り避けてきた人間には重いお仕置きですよ。
だから「桐島、部活やめるってよ」は僕にとっては辛い映画なわけです。

さらに面白いことに「桐島、部活やめるってよ」は観た人がどのようにして映画を消化しているのかが、
如実に表れる類の作品なのでその点も興味深いが、それはまた別の機会に。

で、今月の映画は「ゴーストライダー2」です。
前作を無かったことにして作られた今作。
なので前作でニコラス・ケイジが無い知恵と髪を絞って作ったと思われる
オリジナル感あふれる主人公ジョニー・ブレイズはいない。
カーペンターズを聞きながらジェリービーンズを大量に食い、
タイニー・トゥーンズみたいなアニメみてヘラヘラ笑う
意味不明に狂った人物設定が無くなったことは単純に悲しい。

■あらすじ■
ジョニー・ブレイズは父を病魔から救うために悪魔と契約を交わした男。
職業はスタントマン。
バイクに乗り尻を出して飛ぶといったレッドネックが喜びそうなスタントで有名になったらしい。
しかし、悪魔との契約に代償はつきもの。
ジョニーは悪の匂いを嗅ぎつければ、
勝手にホネホネロックが炎につつまれ皮ジャンを着た
ゴーストライダーに変身してしまう呪われた肉体になってしまったのだ!
悪魔から逃れるためルーマニアまでやってきたジョニー。
当たり前だが悪魔に物理的距離は関係なし。
運の悪いことに悪魔が狙う自分と似た境遇の少年を巡る騒動に巻き込まれる。
V-MAXをヘルバイクに変え、戦え!ゴーストライダー!!!

主人公がわざわざ辺鄙な国まで行った理由は、
最近のアクション映画にありがちな制作費の都合でしょうが、
お金が無いという理由だけでは説明がつかない退屈な映画に仕上がってます。
監督は「アドレナリン」のあいつら、マーク・ネヴェルダインとブライアン・テイラー。
ジェイソン・ステイサムが終始いきり立ったポコチンのように、
その勢いだけで見せる「アドレナリン」は1、2ともに退屈だけはしない映画だった。
こいつらは凄い馬鹿だけど悪い奴らではなさそうだと思っていたが、
その後の奴らの映画は徐々につまらなくなっていく。
なんせ「ゲーマー」と「ジョナ・ヘックス」だよ。アホの小便か。
特に「ジョナ・ヘックス」は酷い。日本ではDVDスルーですが、それも当然の酷さ。
子供も騙せない子供騙し映画ばかりを撮るようになってしまった奴らが「ゴーストライダー2」を撮る。
僕はどうしようもない馬鹿なので、子供も騙されないような映画にまた騙されてしまった。

この監督たちの悪い癖なのか、ビールを飲みながらゲラゲラ笑いながら脚本を書いているからなのか、
バカだからなのか、アメコミと絡むとキャラクターに頼りすぎてダメになる。
ニコラス・ケイジもただのおじさん過ぎるし、もっと体つくってこいよ!
キャラクター映画なのだから、ゴーストライダーが暴れていれば面白いのかといえばそうではないだろう。
ヒーローには戦う理由と、憎むべき悪役が揃っていないと、そのアクションから爽快感は得られない。
「ジョナ・ヘックス」と「ゴーストライダー2」も悪役がなぜ悪いことをするのかの部分が決定的に弱い。
「ゴーストライダー2」に至っては悪魔以外の悪役は金が目的って
そんな理由じゃ燃える髑髏を見た瞬間に逃げるだろ。
ゴーストライダーが採掘場でデカイ削岩機をヘル削岩機にして暴れても、それはつまらない芸人が
「これで笑えるでしょ」と上から目線でテレビではしゃいでいるのと同じ。
見ているとどんどん気持ちが冷めて、こんなものに期待してしまった自分に笑えてくるのだ。
空虚で派手なだけの爆発シーンより、魂のこもった銃弾一発にこそ男は震えるんだよ!

観終わった後、これはまともな大人が観るものじゃないなと素直に思った。

「桐島、部活やめるってよ」の中で映画部の連中が顧問の先生の命令に背いてまで、
自分たちが撮りたいゾンビ映画を作りだす。
この気持ちをマーク・ネヴェルダインとブライアン・テイラーも取り戻してほしい。
いや、別にいい。ビール飲んで笑っていればいい。
いつまでも俺が騙されてやるから。

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「ルーパー」
9歳年下の人から、これからは「魔法少女まどか☆マギカ」を見た人間と見ていない人間とでは
かなりの差が出る、と断言されおっかなくなったので早速全12話を見たわけです。
なので、これからは見てない人間を見下しても良い存在となりましたので、お前らみたいなクズは徹底的に見下したいと思います。
で、魔法少女の感想ですが。
キミらこんなん好っきゃなあ~
ということに尽きる。
要するに、泣けるぅ超泣けるぅシコシコ…ぅぅ泣けるぅぅシコシコシコ…うっイク!
タイプの「泣きシコリ型」ですよ。
でもね、このアニメを否定する気は全くないですよ。
なぜなら15年前くらいは僕も泣きシコリばっかしてましたしね。
「まど☆マギ」のストーリーを説明するとガッカリして見ないバカがいるかもしれないので、
あまり詳しくは書きませんが魔法少女の一人がタイムリープを繰り返し孤独な戦いを続けている話が
あるとです、これが大きな泣きポイントとなっとるとです。ヒロシです。
ヒロシもあの芸だけを延々と繰り返し、孤独に芸能界と戦った魔法芸人ですよ。
タイムリープ物はどうもハッピーエンドになりにくい、というかハッピーエンドが何らかの犠牲の上でしか成立しない作品が多いのではないでしょうか。
「まど☆マギ」も例に洩れず切ない終わり方をしますよ。どっかで見たことあるような終わり方を。
既視感がある!これは既視感!既視感!と年配の方は騒ぎたがりますが、ちょっと冷静に考えてみましょう。
ある程度の教養のある30代ともなれば大概のお話は既知で当然。それを知っているようなストーリーだから面白くないと言うのは馬鹿げたことです。やめましょう。
自分には100回目でも誰かにとっては1回目の可能性があることを常に頭に入れておかないと、年をとるにつれ後悔すること必至。
でも、もうお腹いっぱい。
筒井康隆の「時をかける少女」で一夫のことを和子だけが覚えてるみたいな感じの終わり…多い…。
死ぬほどだるかった「シュタインズ・ゲート」もそんなお話でしたね。

「まどか☆マギカ」とヒロシについて書いてしまったが、これからが本題。
2012年町山智浩さんのベスト1映画「ルーパー」ですよ!
はい!タイムトラベル物です!
映画でも一つのジャンルと考えてもいいほど多いのがタイムトラベル、タイムリープ、タイムワープと色々と呼び名がある、時間映画。
僕が初めてこのジャンルの映画ですげぇと興奮したのが、バンダムの「タイムコップ」なのでその程度のリテラシーしかないことをご了承頂きまして、それでもけっこう好きなジャンルなんですよ。
何度も限定された一日を繰り返す「恋はデジャブ」「ビューティフルドリーマー」「ミッション8ミニッツ」も好きな映画ですし、過去に戻り未来を変えようとする「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「バタフライエフェクト」「デジャブ」もテレビで放送してりゃ必ず見るレベルの好き映画。
「戦国自衛隊」のようにハプニングで過去に行ってしまう映画より、
明確な意思をもって過去に戻る映画は燃える。やくざの事務所に殴りこみに行くような覚悟の場面。
取り返しのつかないことをやりに行く奴は文句なしにかっこいい。
あの魔法少女も時間を繰り返す度にかっこよくなっていってたしね。

で「ルーパー」なんですが、これは厄介な映画ですよ。
主人公は悪の組織が30年先の未来から送ってくる人を殺す、殺し屋。
いつものように銃をかまえ未来から送られてくる標的を待ってたらブルース・ウィリスが出てきて、
さらにブルース・ウィリスが未来の自分だったので腰抜かす。
ブルース・ウィリスは30年前に戻って、30年後に奥さんを殺すことになる組織のボスとなる子供を殺そうとするんですが、その方法がけっこう雑で…。ってお話。
9:11以降のアメリカ映画的メッセージが明確にあって、つまり暴力の連鎖を止めるためにはどうするべきか?を訴えかけてくる作りになっている。
一昨年の映画「ミッション8ミニッツ」では列車爆破テロの犯人を捕らえるために、主人公は爆破までの8分を延々と繰り返す。そんな何度も繰り返す8分の中で当初は任務の遂行しか頭になかった主人公が、最終的に列車に乗っている乗客全員を愛おしく思うようになり人間として成長し奇跡を起こすクライマックスで泣ける。
「恋はデジャブ」でもそうだが、主人公は人生の大切さや人を愛することを学んで
延々と続くタイムリープを抜け出す。
「ルーパー」の主人公も初めは殺し屋でヤク中のクズだが、
ラストにある決断をするほど成長を見せるのが素晴らしい。
しかし、この映画が本当に素晴らしいのは主人公と未来の自分であるブルース・ウィリスが
ダイナーで対面する場面。
色々と聞きたい主人公はブルース・ウィリスに質問をするが、
ブルースは「やめろ!タイムトラベルの話は複雑すぎる!」と断るところが新しい。
この一言でこの映画はタイムパラドックスとかを真剣に考えている本格SFではないですよと理解できるし、
なにより「あ、説明しなくてもいいのか」という気づきを与えてくれる。
舞台は2044年なので31年後。でも、この映画の2044年は現実の2044年を予想したものでなく、
あくまで「ルーパー」の世界の2033年。
だから銃は旧型だし懐中時計を持っていたりとテクノロジーの進化の偏りがよくわかる変な未来。
車も街に溢れる難民みたいな人々もすげぇ汚い嫌な未来。
物語の後半はそんな街を離れ、農場が舞台となるが、ここからはいわゆるネタばれってやつなのでやめます。

ハリウッドのアクション映画!スカッと爽快!単純おもしろ!
を求めると肩透かしをくらうが、なかなか感動出来るラストに仕上がっている。
「魔法少女まどか☆マギカ」の主人公と「ルーパー」の主人公を重ねて見れば、普段はアニメしか見ないくせに
偉そうに物を語るバカも納得できるラストではないでしょうか。

延々と過去だか未来だかわからない現在を生きているのは我々であって、
ぼんやり退屈な人生を抜け出すためには、自分を成長させるしかないことを時間映画は教えてくれる。
未来を変えるためにやると決めたあの主人公たちの眼差しは我々に向けられているのだから。

ルーパー